長嶋清幸氏、広島→中日移籍も所属2年でロッテにトレード 広島時代の1984年に日本シリーズMVPに輝くなど勝負強い打撃で知られた長嶋清幸氏の所属球団は1991年以降、目まぐるしく変わった。プロ13年目の1992年オフには宇野勝内野手とともに…

長嶋清幸氏、広島→中日移籍も所属2年でロッテにトレード

 広島時代の1984年に日本シリーズMVPに輝くなど勝負強い打撃で知られた長嶋清幸氏の所属球団は1991年以降、目まぐるしく変わった。プロ13年目の1992年オフには宇野勝内野手とともに中日からロッテにトレード移籍となった。主砲の落合博満内野手と親しかったことが関係し、高木守道監督による“落合派一掃トレード”と言われた。「俺ら別に派閥でも何でもなかったんだけどね」と首をひねりながら当時の状況を話した。

 広島から中日に移籍して2年目の1992年、長嶋氏の背番号はカープ時代と同じ「0」になった。1年目の1991年は「4」だったが、6月8日の大洋戦(札幌)での守備中に右膝靱帯と半月板損傷の大怪我を負ったことで「背番号を変えようとなった」という。「0」をつけていた種田仁内野手が「1」に変更、「1」だった近藤真一投手が、1987年に史上初の初登板ノーヒットノーランの快挙を成し遂げた当時の「13」に戻すなど背番号シャッフルが行われてのことだった。

 1991年限りで闘将・星野仙一監督が退任して、通算2274安打、バックトスをはじめ、絶品の二塁守備を誇った中日OBの高木守道氏が監督に就任した。長嶋氏も再びの「0」で心機一転、新たなスタートに気合を入れ直した。だが、結果は78試合の出場で175打数42安打の打率.240、5本塁打、14打点に終わった。出番が極端に減った。「星野さんがトレードで獲ってきた選手とかが2軍に多かったんじゃないかな」。

 高木新体制では星野時代とは違う形の選手起用も目立った。当時30歳の長嶋氏はその流れにものみ込まれた。6月10日の阪神戦(甲子園)で節目の通算1000安打、7月31日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では通算100号本塁打も達成したが、何かしら不完全燃焼のまま時が過ぎていき、オフにはロッテへの移籍が決まった。中日からは長嶋氏と宇野、ロッテからは今野隆裕投手と横田真之外野手の2対2の交換トレードだった。

“落合派一掃トレード”…「派閥でも何でもない」

 これが“落合派一掃トレード”と言われた。1992年の中日は最下位。高木監督と主砲・落合の関係は決して良くなかった。「高木さんは落合さんをトレードに出したかったらしいけど、それができなくて、落合さんに金魚の糞みたいにくっついている俺と宇野さんを出してくれってなったってことですよね」と長嶋氏は振り返る。「でも、だからといって落合さんを孤立させるっていうのも意味がわからなかったけどね。あれだけすごい人なのに……」とも漏らした。

「それにね、俺ら別にさ、派閥でも何でもないわけ。ただ落合さんに呼ばれれば行くしかないし、そうでしょ、一緒に飯食おうって言われたら嫌とは言われへんでしょ」。中日現役時代の落合はどちらかといえば一匹狼タイプ。キャンプ地でもシーズン中の遠征先でも大勢を引き連れて外出することはまずなかった。そんな中で長嶋氏らは野球の話などで気の合う選手だったのだろうが、“落合派”と呼ばれるほどのものではなかったということのようだ。

 トレードを通告された時は「もうどこでもいいわと思った。で、聞いたらロッテって言われた。ああ、結局ロッテに行くんかい、みたいに思った」と言う。長嶋氏は1991年1月に広島から中日にトレード移籍したが、その時に「もしかしたらロッテに行くのかな、と思った」と明かす。1989年オフに慕っていた先輩の高橋慶彦内野手が広島からロッテにトレード移籍していたこともあって、そう予想したそうだ。

「あの時はトレードならセ・リーグからセ・リーグはないだろうと思っていたしね。それが(広島・山本浩二監督と中日・星野仙一監督による“友情トレード”で)中日だったからありがたかったんだけど、結局中日からロッテになって、俺の人生は必ずつながりがあるわと思ったね」。トレードの経緯はともかく、もちろん決まったからには全力を尽くす。そんな思いで新天地・ロッテに向かった。だが、そこでの生活も長くなかった。今度は1年で“通過”することになる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)