元ロッテ・成本年秀氏、阪神でカムバック賞 ロッテで1996年に最優秀救援投手のタイトルを獲得した成本年秀氏は、右肘手術を経て2000年オフに戦力外通告を受けた。コーチ就任の打診を断り、阪神の入団テストを受けて合格。生まれ故郷の兵庫県西宮市で…
元ロッテ・成本年秀氏、阪神でカムバック賞
ロッテで1996年に最優秀救援投手のタイトルを獲得した成本年秀氏は、右肘手術を経て2000年オフに戦力外通告を受けた。コーチ就任の打診を断り、阪神の入団テストを受けて合格。生まれ故郷の兵庫県西宮市で再出発することになった。当時、阪神の指揮を執っていたのは「再生工場」の異名をとった野村克也監督。新天地でいきなりクローザーに指名してくれた名将の下で、懸命に腕を振った。
2001年は春先から好調でオープン戦は7試合で4セーブ、防御率1.29。開幕が1週間後に迫ったある日、ロッテ入団時の監督だった八木沢荘六投手コーチから「開幕、抑えで行くからな」と伝えられた。「『いいんですか?』って感じですよね。普通こんなことってないなと思って。入団テストで入った人間を抑えにしますか? 実績は多少あるにしても……。『野村さん、凄いな』って。普通そんな決断できますか? そこから『俺はこの1年でもう1度壊れてもいいや』って腹をくくりました」。
想定していなかった開幕守護神。「精いっぱい1年頑張ろうと思いました」。意気に感じて必死に腕を振り、5年ぶり3度目となるオールスターにも選出されるなど結果を出し続けた。「ちょうど手術した右肘が自分の体に馴染んだ頃だったのかもしれない」。最終的には45試合で3勝1敗20セーブ、防御率2.34の好成績。輝きを取り戻した右腕はカムバック賞も受賞した。
「でも、人生いいときばっかりじゃなくてね……」。同年のオフ、続投が決まっていた野村監督が、沙知代夫人の脱税問題で辞任。急きょ就任した星野仙一監督がチームの若返りなど大幅な改革を進めたため、成本氏の処遇も大きく変わることになる。
翌2002年は「さらに頑張らなきゃなと思っていたけど、オープン戦で結果が出ずに、コンディションもあまり良くなかった」。結局、1度も1軍登板の機会を与えられないままシーズンを終えた。そのオフ、阪神は24人退団という“大型リストラ”を断行。成本氏もその中の1人で、自身2度目の戦力外通告を受けた。
3度目の戦力外通告…12球団合同トライアウトも受けた
「人生何があるか分からない。ヤクルトからご縁をいただけたんですよね」。現役にこだわり、2003年は3球団目となるヤクルトで32試合に登板し、0勝0敗、防御率5.22。2004年は7試合登板と出番が激減し、目立った活躍を見せることができないまま、3度目の戦力外通告を受けることになる。阪神と同じく、ヤクルトでの生活も2年間で終わったが、ここでつないだ関係が、後にヤクルトでの投手コーチ就任へとつながっていく。
ただ、当時は引退する気持ちは少しもなかったという。11月には12球団合同トライアウトを受けた。「なんかね、私は『引き際はきれいに』っていう選手じゃないと思っていて。ボロボロになるまで、やれる場所があるんだったらやり通したかったんです」。それが『成本年秀』という男の生きざま。国内球団からのオファーは届かず、今度は海を渡る決断をする。
自身にとって4球団目は台湾プロ野球の統一ライオンズ。当時、東映と阪急で活躍した大橋穣氏がヘッドコーチを務めるなど日本人に縁が深い球団である。意欲十分で乗り込んだが「台湾に行って、もう1回、肘が飛んだんですよ」。またしても大きな試練が待ち構えていた。(尾辻剛 / Go Otsuji)