元ロッテ・成本年秀氏、西宮東時代からプロ注目投手 1996年に最優秀救援投手のタイトルを獲得した元ロッテの守護神・成本年秀氏は現在、阪神大学野球リーグに所属する大阪電気通信大学で投手コーチを務めている。現役引退後はプロ野球、独立リーグ、社会…

元ロッテ・成本年秀氏、西宮東時代からプロ注目投手

 1996年に最優秀救援投手のタイトルを獲得した元ロッテの守護神・成本年秀氏は現在、阪神大学野球リーグに所属する大阪電気通信大学で投手コーチを務めている。現役引退後はプロ野球、独立リーグ、社会人野球、大学野球で指導者の道を歩み、現在は生まれ故郷の兵庫県西宮市に戻って新たな生活を送る。成本氏の原点である西宮市での高校時代。西宮東で本格的に投手を始めたが、早くからその片りんを見せていた右腕にプロ野球のスカウトは注目していた。

 甲子園から南東に約900メートルの場所に、西宮東の校舎はある。「甲子園から見えるところにある。甲子園から一番近い高校と言われているんですけど『近くて遠い甲子園』ですね」。毎年のように国立大進学者を出すなど県内屈指の進学校として知られる公立校。報徳学園や東洋大姫路、神戸国際大付など強豪私立がひしめく激戦区で、甲子園出場の道は当然、険しいものだった。

 同校野球部員は選抜大会や夏の甲子園期間中、出場校のサポートを行うことがある。成本氏も高校時代、甲子園練習を何度も見てきた。そんな状況もあり、校舎に隣接するグラウンドには、西宮市が甲子園と同じ黒土をグラウンドに提供しているという。「だから公立にしては、いい環境で野球ができていたんじゃないかな」。

 3年夏は5回戦に進出。西宮南に3-5と惜敗してベスト16で終わったが、最速140キロ近い直球とカーブで公立校をけん引する右腕にプロのスカウトも注目していた。スポーツ新聞にもドラフト候補のリストに掲載されたという。「『A、B、C』ってランクやっていますけど『C』で載りましたね。まあ、ダークホースですよ」。

 実際、10球団のスカウトが高校に来ていた。「大騒ぎでしたね。『何が起こったの?』って感じで。『スカウトが来てるぞ』って騒がしかったですよ」。それまで無名の公立校には縁がなかったプロ野球の世界が近づいたのだから、それも当然だろう。「そのうちいくつかの球団が下位で指名するかもしれないという話があったみたいです。結局、指名されずに大学に進学したんですけど」。

ドラフト外で入団の打診…「今は、あぁこれで良かったんだなと」

 ドラフト会議が終わり、京産大への進学を決意した1986年の秋。当時はまだ育成選手制度がなく、ある球団からドラフト外(ドラフト会議で指名されなかった選手を対象に球団関係者が直接交渉して入団させる制度。ドラフトが開始された1965年に導入、1990年を最後に廃止)での入団の打診があったことを、後に知ることになる。

「当時の野球部の監督が『彼は進学に決めたから』って言って、私に話をしなかったらしいんですよ。もし、その時に『ドラフト外で』って私に直接言われたら『行きたい』と思っていたかもしれない」。憧れていたプロ野球選手。どんな形でも夢を叶えたいという気持ちは強かった。ただ、冷静に振り返ると高校時代とは違う考えの自分がいる。

「高卒でプロに行っていたら、相当苦労していたと思う。大学出て、社会人出て、即戦力としてプロの世界に入ったから活躍できたと思っている。自分のレベルを上げてからプロに入ったのでやってこられたと思っている。プロのレベルに達していない人間が、レベルが高すぎる世界に入るとしんどいと思う。時間をかけて実力をつけられたので、次のステージに行けたわけで、高卒でプロでやっていたらすぐにプロ野球生活が終わっていたかもしれない」

 結果を残さなければ、数年で退団となる厳しい世界。大学でもプロでも怪我で投げられない時期を経験しているだけに、その言葉に実感がこもる。「何年か投げられないとかなったら、もう終わりだなとなる。チームは次の選手に期待するでしょう。そういうのは、後々プロの世界に入ったから分かるわけでね。今は、あぁこれで良かったんだなと思うけど、若い時は分からないですよ」。

 最近、知人から「近くにいた人が『成本みたいに公立からプロまで行って活躍できることもあるよ』いう話をしていた」と聞かされたことがあった。地元では知る人ぞ知る存在で「こっち(関西)では結構、知られてるんみたいなんですよ。でも最近では、隣にいても気づかれないことの方が多いですけどね」と笑う。西宮市にある公立校のエースは、関西地区の大学、社会人でプロでの礎となるべく新たな決め球となる変化球を磨いていった。(尾辻剛 / Go Otsuji)