今村猛氏がエースの清峰は2009年選抜Vも…夏は長崎大会準々決勝で敗退 最後の夏は不完全燃焼だった。元広島右腕の今村猛氏は長崎・清峰高3年の2009年選抜大会で優勝。甲子園春夏連覇を目指したが、夏の長崎大会は準々決勝で敗れた。…
今村猛氏がエースの清峰は2009年選抜Vも…夏は長崎大会準々決勝で敗退
最後の夏は不完全燃焼だった。元広島右腕の今村猛氏は長崎・清峰高3年の2009年選抜大会で優勝。甲子園春夏連覇を目指したが、夏の長崎大会は準々決勝で敗れた。のちにカープで僚友となる大瀬良大地投手がエースだった長崎日大に1-3で敗れた。選抜後、腰痛に苦しむなどコンディションも万全ではなかった。初回に2点を先制された後に打席で大瀬良の球を見て「負けるかもと思った」という。
2009年選抜大会で清峰は、長崎県勢初の甲子園制覇を成し遂げた。エースの今村氏は決勝までの全5試合に先発して、44イニングを投げて47奪三振、3完封を含む4完投で防御率0.20と圧倒的な成績を残した。だが、大会終了後は「ちょっと練習できない時期がありました」という。「体がしんどすぎて……。(選抜は)緊張があって疲れを感じていなかったと思う。腰があまりよくなくて、整骨院に通院していました」。
選抜での激投によって、体に負担はかかっていたということだろう。「でもチャンスがあれば(優勝を)取りにいかないといけない。しかたないです」と気持ちを切り替えた。2回戦で九州国際大付(福岡)に敗れた春季九州大会は登板なし。「それは僕の(状態の)ことだけでなく2番手、3番手(の投手)を(吉田洸二)監督が育てようとしたのもあったと思います」というが、夏に向けて懸命に治療、調整も続けた。
そんな時期を経て、夏の大会前の神村学園(鹿児島)との練習試合では自己最速の152キロをマークした。「招待してもらって、鹿児島で。『1イニングだけ投げて来い』ということでね。真っすぐばかり投げていました。腰はまだ万全ではなかったと思いますけどね」。高校時代での150キロ超えは目標の1つに掲げていた数字。「やっと出たか、という感じでした。でも、それが結果につながるかは正直わからないというのがありましたね」と振り返った。
「その頃はあまり投げないようにはしていました。甲子園とか、県大会に向けて(強豪校の)データ班が来ていたのでね。いろんなデータが出回るんで。直接、見に来ていなくても、他の監督の知り合いとかでデータがまわってくるんでね」。調整に苦しみながら春の王者として他校からマークされる立場でもあり、神経をすり減らしていた。そんな中で迎えた高校生活最後の夏だった。目指すは甲子園春夏連覇。今村氏は気合を入れ直して長崎大会のマウンドに上がった。
大瀬良大地に衝撃…打席で覚悟した敗戦「打てないな」
2回戦は川棚を5-0、3回戦は北松西(ほくしょうにし)を4-0。失点を許さなかったが、「あまり納得できる投球ではなかった。状態がよくなかった。ちょっと体が重かったと思います」という。絶好調だった春に比べれば、調子がいまひとつだった中、準々決勝の長崎日大戦では初回に2点を失った。「10球くらいでポンポンポンと点を取られた記憶がありますね。追い込む前に取られた。ストライクをポンポンと取りに行くのが僕のスタイルだったんで、それを打たれた感じでした」。
長崎日大のエースは大瀬良。高校では初対決だった。「(佐世保市立小佐々)中学の時に(大村市立桜が原中学の大瀬良と)対戦したことがあったそうですが、僕は覚えていなかった。彼自体、高3の夏前くらいからよくなったらしい。僕はノーマークで、試合に入った時に『あれ、こんなピッチャーがいたんだ』って思いました。打席で見て『これは打てないな、2点とるのはきついかも。正直、負けるかも』って……」。
あっさり許した初回の2点が重く感じられた。「あとあと、大瀬良に聞いたら、(長崎日大は)僕にはストライクを取りに来るボールがあるから、それを狙おうという作戦だったらしいです」。やはり相手に細かく研究されていた。「それにまんまとハマったのが僕だったってことですね」。清峰は4回に1点を返したが、今村氏がその裏に1点を追加され、1-3で敗れた。長崎大会準々決勝で、甲子園春夏連覇の夢は儚く消えた。
負けた瞬間について、今村氏は「やっと終わったというのと、もっとやりたかったというのが半々で押し寄せてきましたね」と話す。「周りが泣いているのを見て、状況を判断できたというのもありました。それで自分も泣けてきて……」。全力で野球に取り組み、選抜優勝を成し遂げたが、清峰での最後の夏はコンディションも含めて悔しい思いでの幕となった。もちろん、その時は、のちにカープで、大瀬良と同僚になるなんて思ってもいないことだった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)