空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第12回(第11回:「K-1崩壊」の兆し ブームとともに「拝金主義になっていった」>>) 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年…
空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第12回
(第11回:「K-1崩壊」の兆し ブームとともに「拝金主義になっていった」>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第12回は、激闘の連続で体に起きた異変と、「キャリアのピーク」と振り返る試合を語った。
K-1時代を振り返った佐竹氏
photo by Tanaka Wataru
【激闘を重ねた代償】
1994年12月10日、佐竹は名古屋レインボーホールで行なわれた「K-1 LEGEND~乱~」で、オーストラリアの空手家サム・グレコと対戦した。身長188cm、体重100kgを超える恵まれた体格で、極真空手の猛者だったグレコは、K-1参戦を目指して正道会館に移籍。この佐竹との試合がK-1デビュー戦だった。
グローブを着け、顔面への打撃ありという極真空手とはまったく違うルールでの初めての実戦だったが、グレコは果敢に佐竹に突進した。佐竹は防戦を強いられ、1ラウンドにバックブローからの右アッパーでダウンを奪われると、打ち下ろすような右ストレートで連続ダウンを喫した。
なんとか難を逃れて迎えた2ラウンド。パンチの応酬からの左フックを空振りした佐竹は、顔面に右フックを浴びてダウンし、KOで敗れた。実は、佐竹はこの試合の前から体に異変を感じていたという。
「この頃から体が悲鳴を上げ始めていて、試合で倒れることが多くなっていました。このサム・グレコ戦も、1ラウンドにパンチをもらって記憶が飛んでしまい、以降の展開はほぼ覚えていません。うっすらと覚えているのは、いつのまにか試合が終わっていて、タクシーに乗って病院に向かっていたこと。その後は眠ってしまい、三途の川にいるみたいなお花畑が見えました。何とか目が覚めた時には、病院の集中治療室に入っていましたね」
顔面への打撃がない極真空手からキックボクシングに挑戦したのが1990年6月30日のドン・中矢・ニールセン戦。それからの4年間は激闘の連続で、佐竹の脳はダメージを蓄積していた。
「しかも闘ってきた相手は、ブランコ・シカティック、ピーター・アーツ、アーネスト・ホーストと、ヘビー級のとてつもなくデカイ奴らばかり。ヘビー級のパンチ、蹴りはとんでもない破壊力なんです。しかも試合だけでなく、顔面への打撃ありのキックボクシングを習得する武者修行でオランダに行って、スパーリングでヘビー級の選手とガンガンやっていたわけです。
"顔面あり"の練習をやり始めた年齢が24歳。今振り返れば、K-1グランプリで準優勝した1994年あたりがキャリアのピークだったと思います」
【体のダメージを自覚するなか、UFCで名を馳せたキモと対戦】
それでも、当時は無我夢中でリングに上がっていた。
「大山倍達先生に憧れ、梶原一騎先生の『空手バカ一代』の世界を現実にする夢を追いかけていましたから、必死に闘っていましたし、『1度でもいいからK-1のチャンピオンになってやろう』と気力で闘っていました。
思えば、僕は中学の卒業文集で同級生たちがメッセージを書くページに、(江戸時代の書物である)『葉隠(はがくれ)』の一説『武士道とは死ぬことと見つけたり』と書いていたんです。この言葉は大山先生の本に出てくる言葉だったんですが、『これが俺の生きる道だ!』と感動して卒業文集に書いた。ほかの同級生は『みんな、ありがとう!』『3年間、楽しかったよ』などと書いていたので、中学では浮いていましたよ(笑)。
ただ、空手を志した中学の時から常にそういう気持ちを持っていたから、空手からキック、リングス、K-1と舞台を変えるなかで、周りから何を言われようが、笑われようがチャレンジを続けることができました。そんな精神で闘ってきたのですが......さすがにこのグレコ戦で記憶が完全に飛んだことで、ダメージの蓄積を自覚しましたね」
ダメージの自覚は、命の危険を意味する。それでも容赦なく試合は組まれた。
年が明けた1995年3月3日、第3回K-1グランプリの開幕戦が日本武道館で開催された。佐竹はそのメインイベントで、相手はアメリカの総合格闘家のキモ。アーツ、ホースト、グレコ、アンディ・フグら外国人スターが台頭してもメインは佐竹だった。
脳のダメージへの不安を抱えながらも、主役を托された佐竹はプロとしてリングに上がった。
対戦相手のキモは当時、総合格闘技界で注目を集めていた存在だった。前年の1994年9月に行なわれた第3回「UFC」の1回戦で、大会を2連覇していたブラジルの柔術家、ホイス・グレイシーと対戦。敗れはしたが、ホイスが準決勝を棄権するダメージを負わせたことで名を馳せた。また、K-1には同年の12月10日の名古屋レインボーホール大会で初参戦し、総合ルールの無制限一本勝負でパトリック・スミスをTKOで破った。
そんな、勢いに乗るキモとのK-1グランプリ1回戦で、佐竹はそれまでのトランクスではなく、純白の空手着を身にまとって闘った。
「キモはUFCのファイターだから、道着を着て違いをわかりやすくするのはどうか、となったので。もともと空手家ですから、トランクスで闘うほうが違和感があったので問題はありませんでした」
その裏には、1993年に大手ゲーム会社「セガ」が発売した対戦型格闘ゲーム、『バーチャファイター』の世界を表現する狙いもあったという。
「バーチャファイターの登場人物のひとり、結城晶は自分をイメージして作ってくださったキャラクターなんです。あのツンツンの髪の毛もそう。そんな世界を、異種の格闘技から来たキモと道着を着て闘うことで、現実にしようと考えたんです」
【また記憶が飛ぶも「しっかり闘っていた」】
舞台は、ニールセンを倒した日本武道館。武道の殿堂での決戦は大荒れとなった。
初めてのキックボクシングに挑戦するキモは、ゴングと同時に身長191cm、 110kg超の体格を生かして猛烈に突進する。左右のパンチを振り回し、佐竹は何度もロープ際に押し込まれた。
その後、マットに倒されて後頭部と背中を叩きつけられる場面も。そこからキモはマウントを取り、佐竹の顔面を軽く殴った。レフェリーが注意を与えたが、まさに異種格闘技という展開に武道館は興奮の坩堝(るつぼ)と化した。
なおも突進するキモに対し、佐竹は左ミドル、右のローキックで活路を見出す。そしてヒザ蹴りの連発から右ストレートでダウンを奪った。そこでは仕留めきれなかったが、2ラウンドで強烈な右ストレートを突き刺し、キモが崩れ落ちるところに右ローキックを入れて再びダウンを奪う。
立ち上がったキモだったが、佐竹の左ミドルが入って3度目のダウン。レフェリーが10カウントを入れたものの、なぜか試合は続行。グロッキーのキモに、最後はまた左ミドルを入れてとどめを刺した。
その一戦について、佐竹は「あの試合は面白かった」と笑顔で語った。
「完全な異種格闘技戦でしたし、絶対に負けるわけにはいかない。そのヒリヒリ感が面白かったです」
劇的なKO勝利だったこの試合も、グレコ戦と同じように記憶が飛んでいた。
「どこで記憶が飛んだのかはわからなかったんですが、ビデオを見直すと、最初にロープへガーンと押され、頭を打った時でしたね。ニールセンとの試合では、倒す瞬間に時間が止まった感覚でしたが、記憶が飛んでもしっかり闘っていたんですね。空手家の本能だと思います」
キモ戦で覚えている光景は、試合後の控室だけだという。
「試合中の記憶はほぼなく、意識が戻ったのは試合後の控室でした。セコンドについてくれた後輩が、僕に向かって何かを話しているのをボーッと聞いていました。周りは、僕の記憶が飛んでいるようには見えなかったようです。
後輩から『勝ちましたよ』と言われた時は、『えっ! 勝ったの?』と聞き返しましたよ。ピーク中のピークが、あのキモ戦だったのかもしれません。肉体的な限界もあるから、仕方ない部分もありますが......」
キモをKOで下して初戦を突破した佐竹は、2カ月後の5月4日に代々木体育館で行なわれた準々決勝に挑んだ。相手は、フランスのジェロム・レ・バンナ。この一戦で心配していた脳の異変をはっきりと自覚することになった。
(続く)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。