連載第42回 サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。 今回は、サッカー日本代…
連載第42回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、サッカー日本代表が対戦するサウジアラビアサッカーの歴史。オイルマネーによる強化でアジアのトップに出てきた流れや、後藤氏が国内のサッカー事情を取材した時の様子を紹介します。
W杯アジア最終予選。7試合終了時点でグループC3位のサウジアラビア代表
photo by Getty Images
【オイルマネーでサッカー強化】
日本代表は"世界最速"でW杯予選突破を決めた。
最終予選の組分けが決まった時にはオーストラリア、サウジアラビアと一緒だったので難しい戦いも予想されたが、蓋を開けてみれば両国とも勝点を伸ばせず、日本の独走となった。
サウジアラビアは2022年カタールW杯では初戦でアルゼンチンに逆転勝ちしたし、1994年アメリカW杯ではサイード・オワイランの強烈なドリブルシュートでベルギーを下し、アジア勢としては1966年イングランドW杯の北朝鮮以来となるグループリーグ突破を成し遂げるなど実績も豊富。
また、最近では国内各クラブがクリスティアーノ・ロナウドなどワールドクラスの選手を次々と獲得。2034年W杯開催も決まっており、巨額のオイルマネーを背景にサウジアラビアサッカーは順風満帆かのようにも見える。
だが、代表強化は思うように進まず、昨年のアジアカップではラウンド16敗退。そして、W杯最終予選でも苦戦続き......。果たして、サウジアラビアのサッカーの将来はどうなっていくのだろうか?
中東地域では欧州の影響が濃い地中海沿岸やイラン、イラクでは古くからサッカーが行なわれており、イランは1920年代からトルコやロシアなどと国際試合を行なっていた。
だが、アラビア半島では当時、サッカーはほとんど行なわれてはいなかったようだ。
サウジアラビアは、首都リヤドがあるナジュド地方を治めていたサウード家がアラビア半島各地を征服して1930年代に成立した王国だ(国名は「サウード家のアラビア」という意味)。イスラム教の聖地マッカ(メッカ)を含む広大な領土を保有していたものの、経済的には貧しく、内紛も絶えなかった。
世界の注目を集めるようになったのは1970年代からだ。
1973年にイスラエルとエジプト、シリアとの間で第4次中東戦争が勃発すると、ペルシャ(アラビア)湾岸産油国など石油輸出国機構(OPEC)が親イスラエルの欧米諸国に対して原油禁輸や価格引き揚げを決定。世界経済を大混乱に陥れた。そのリーダーがサウジアラビアだった。
国際社会におけるアラブ諸国の発言権は一気に強まり、1973年はアラビア語が国際連合の6番目の公用語となった。そして、サッカーの世界でもこの頃から湾岸諸国が台頭してきた。
サウジアラビアサッカー連盟は1956年に結成され、FIFAにも加盟していたが、国際大会にはほとんど参加していなかった。アジアサッカー連盟(AFC)加盟も1972年になってからだ(一方、かつてアジア最強国だったイスラエルは1974年にAFCを除名され、現在はUEFAに加盟している)。
原油価格の上昇はこの国に膨大な収入をもたらし、サッカー強化もその資金を注ぎ込むことによって始まった。1974年には初めて全国リーグが発足(その前は地域リーグしかなかった)。政府は青少年の育成や娯楽の提供のため、スポーツクラブに資金を投入してスタジアムやトレーニング施設を建設。代表強化にも資金がつぎ込まれた。
【1980年代に台頭】
1975年にはハンガリーの英雄フェレンツ・プスカシュがサウジアラビア代表監督に就任。1982年にはブラジルのマリオ・ザガロが招聘された。当時は、選手としても(1958年と62年)監督としても(1970年)W杯優勝を経験した唯一の人物だった。
こうして、サウジアラビア代表はたちまちアジア最強の地位を築き上げた。
アジアカップでは1984年シンガポール大会で初出場・初優勝。4年後のカタール大会でも優勝し、1992年広島大会で3大会連続決勝進出を果たしたが、決勝ではハンス・オフト監督の日本と対戦し、高木琢也に決められた1点を返せず、準優勝に終わった。
しかし、4年後には王座を奪還。優勝3回は当時の最多記録だった。
つまり、サウジアラビアは1980年に台頭した新興勢力だったのだ。
日本との初対戦は1990年の北京アジア大会で、この時は2対0でサウジアラビアが勝利。そして、2回目の対戦が1992年アジアカップ決勝だった。
僕が初めてサウジアラビア代表を見たのは1986年ソウル・アジア大会。クウェートとの準決勝だった。
2対2からのPK戦でサウジアラビアが決勝進出を決めたのだが、そのプレーのスピードと強度には本当に驚かされた。近い将来、日本が互角に戦えるようになるとはまったく思えなかった。
1989年10月にシンガポールで行なわれたイタリアW杯アジア最終予選でもサウジアラビア代表の試合を見たが(日本は1次予選敗退)、この時のサウジアラビアは北朝鮮に勝利しただけで6チーム中5位と不振で、韓国とマリオ・ザガロ監督のUAEがイタリア行きを決めた。
サウジアラビアは、強いけれども安定感を欠いていた。
【1997年のサウジアラビアサッカー取材】
サウジアラビアは当時の日本人にとっては遠い国であり、実態は謎に包まれていた。僕は、同国を訪れて強化の現場を見てみたいとずっと思っていたが、当時サウジアラビアは入国することも至難の業だった。
そもそも観光ビザというものが存在せず、政府や団体、企業等の招聘状がなければ絶対に入国許可が降りなかったのだ。
1997年のフランスW杯予選の時、僕は1次予選から日本以外の試合も見て回っていた。日本は第4組に所属し、3月にオマーン・ラウンドがある。そして、その直後にジッダでサウジアラビアやマレーシアなどの第1組の試合が予定されていた。
そこで、僕はなんとかして入国できないかと画策を始めた。1996年のアジアカップの時に知り合ったゾラン・ジョルジェビッチというセルビア人指導者が「サウジアラビア連盟には顔が利く」と言っていたのを思い出し、「ビザを取れないか?」と相談したのだ。
そうしたら、オマーン滞在中に「入国許可が下りた。ジッダ空港に書類がある」というFAXが来たのだ。そのFAXを持ってマスカットのガルフ航空に行ったのだが、「ビザの現物がないと航空券は売れない」と言われ、押し問答を繰り返した末にようやく手にしたチケットで僕はジッダに向かった。
しかし、空港の入国審査では別室に連れて行かれ、そこで1時間以上放置されてしまう。結局、書類が見つかってなんとか入国できたのだが、ホテルに着いてパスポートを出したら「緊急ビザとは珍しい」とホテル従業員に感心されてしまった。
フランスW杯1次予選サウジアラビア対マレーシア戦のチケット(画像は後藤氏提供)
1次予選の大会があったジッダは紅海に面した港町で、旧市街が残っていてなかなか風情のある街だった。大会終了後、僕は首都リヤドに移動して、アル・ヒラルやアル・ナスルなどのクラブや連盟の取材に回った。
クラブの施設は政府が一斉に建設したもので、どのクラブも基本設計はまったく同じ。選手たちの給料もすべて国の出資。「つまり、彼らは公務員のようなものなのさ」とあるコーチが説明してくれた。
1997年当時のアル・ナスルの正門(写真は後藤氏提供)
一方、少年チームのコーチはほとんどがボランティアだった。
世界最大の産油国の豊かなエリート階層は午前中だけオフィスワークをして、午後は余暇という羨ましい生活をしていた。だから、その時間にコーチをするのだそうだ。そうした熱心なコーチの下で、少年たちが育ってきていた。
そんな環境のなかから、当時国際試合出場数の世界記録を作ったマジェド・アブドラー(1994年までに117試合出場)や先述したオワイランなど、スター選手も次々と生まれていたのだ。
アル・ヒラルではオーナーである王族にもインタビューをした。王族たちは、同じ王族の一員である他のクラブのオーナーとの対抗心から、ポケットマネーを競って出資。自らが経営する企業グループがスポンサーとなっている。
オーナー私邸に招待されてディナーをご馳走になったが、広大な芝生の庭ではミニゲームが行なわれていた。FWをやっていた選手の巧みなテクニックに驚いたのだが、それもそのはず、アル・ヒラル所属の代表選手だった。
国家から投じられる資金はその後もますます巨額化。今では強豪クラブにはワールドクラスが次々と加わり、2034年W杯開催も控えて施設も充実してきている。
だが、金に飽かせた強化策は限界も露呈。このところ、代表チームの戦績は芳しくないのが現状だ。
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