クライミングと出会って2年、“聖地”ヨセミテ訪問(86年5月〜87年1月)を終えた僕は、次なる目標の地を視界に、国内の岩場で新ルート開拓(とアルバイト生活)に奔走していた。一方、日本クライミング界の87年といえば“コンペ元年”。現在に続く…


 クライミングと出会って2年、“聖地”ヨセミテ訪問(86年5月〜87年1月)を終えた僕は、次なる目標の地を視界に、国内の岩場で新ルート開拓(とアルバイト生活)に奔走していた。一方、日本クライミング界の87年といえば“コンペ元年”。現在に続くオンサイト&リード形式の大会に僕もいくつか参加させてもらい、「夢舞フリークライミング競技会」では優勝も経験した。“世界の頂を目指してギラギラしてる少年”みたいな感じで、NHK『青春すくらんぶる』に出演したのもいい思い出だ。番組でインタビューされた母は、今にも泣きそうな顔で「ちゃんと学校を卒業して社会に出てほしい」と言っていたけれど。

 そして1988年4月2日、準備万端で迎えた約1年間の欧州ツアー。同行メンバーは堀洋紀、小日向徹、西信幸、大工英晃の精鋭4名。第一の目的地はフランス南部のビュークスだった。当初は本場のテクニカルな岩場に苦戦したのを覚えている。暮らしの面でも、渡欧初日から「地中海見たいね〜」なんて浮かれて訪れたマルセイユ(仏)で停めていた車のガラスを叩き割られる悲劇。ヨーロッパの洗礼であった。

 それでも1カ月半もすれば、欧州的なクライミングや生活のスタイルにすっかり順応していた自分。さらには“やれる”という自信も手にしていた。確かにフィジカルに差はある。でも“うまさ”なら……。

 そんな折、6月のマルセイユでコンペ出場という腕試しの機会を得た。自身初の人口壁チャレンジでもあったが、決勝に進出して8位。これを機に、僕は運営側から実力を認められ、別の大会にも呼ばれるようになる。また、アウトドアメーカーにも声をかけてもらい、「決勝に残ればボーナス支給」といった簡易のスポンサー契約まで。その時は何もわからず書面にサインしていたけれど、なんだか夢の世界にいるようだった。

 9月にはニーム(仏)の大会で5位に入賞すると、イタリアはアルコで当時“世界最高峰コンペ”と称されていた「ロックマスター」に参戦(13位)。意欲も最高潮に達していた僕は、翌10月に岩場においても、この遠征で「最終目標」に掲げていた最高難度8b+(5.14b)の「レ・スペシャリスト」に挑戦、レッドポイントに成功した。

 夢が叶った。人生で味わったことのない達成感。だが同時に、目標を失った虚脱感が僕を襲う。それまで自分を相当追い込んできたのに、まだ頑張らなきゃいけないのか……。残る半年の滞在中は岩場でもコンペでも奮わず、89年3月、帰国の日を迎えた。クライミングで生きていけるのか?想像できなかった。しかし、気づけば常盤橋公園(練習場だった都内の岩壁)にいる自分。“一番やりたいのはクライミングなんだ”。20歳の僕は、一度は復学した航空高専に退学届を提出。家に戻ると、その覚悟を一枚の紙にこう記して壁に貼った。『私は、世界一のプロクライマーを目指し、努力します。平成元年 五月三十一日』。

~第4章へ続く~