甲子園初優勝の京都国際Wエースが振り返る激闘の夏〜前編・中崎琉生 2024年夏の甲子園は、京都国際が春夏通じて初の優勝を成し遂げ、高校野球の歴史に新たな1ページを刻んだ。優勝の立役者となったのは、3年生の中崎琉生と2年生の西村一毅の両左腕だ…
甲子園初優勝の京都国際Wエースが振り返る激闘の夏〜前編・中崎琉生
2024年夏の甲子園は、京都国際が春夏通じて初の優勝を成し遂げ、高校野球の歴史に新たな1ページを刻んだ。優勝の立役者となったのは、3年生の中崎琉生と2年生の西村一毅の両左腕だった。あれから約4カ月、京都国際のWエースが激闘の夏を振り返った。
高校卒業後は国学院大に進む京都国際のエース・中崎琉生
photo by Sawai Fumi
【夏の活躍が認められ日本代表に選出】
U−18日本代表の一員として台湾遠征から帰国した9月9日。中崎が母校に帰ると、周囲はすっかり"通常モード"になっていた。
「チームはもう秋の大会に向けた練習をしていて、3年生も次の目標に向けて自主練をしていて......。(甲子園で優勝した)余韻があったのは、僕だけでした」
そう言って、中崎は苦笑いを浮かべた。夏の甲子園で優勝したのは8月23日。その翌日、帰校するためTシャツ、短パン姿でマイクロバスに乗り込むチームメイトの横で、ひとりだけ制服姿で仲間を見送る中崎の姿があった。
「せっかく(日本代表に)選んでもらったので、甲子園決勝の翌日でも合流させます。休みをもらうとか、とんでもないです」と語ったのは小牧憲継監督だ。
中崎自身も「朝起きたらもう(疲れは)抜けていましたけれど、実際は肩回りや精神面の疲労はありました。でも、(代表チームに合流してからの)2日間、調整の時間をもらったおかげで疲れはとれました」と振り返る。
とはいえ、中崎にとってはじつに忙しい8月だった。
甲子園で戦った全6試合のうち、中崎は4試合に登板。3回戦の西日本短大付戦では14個の三振を奪っての完封勝利。通算で31イニングを投げ、33奪三振、5失点、防御率1.45。エースとして文句のつけようのない数字を残した。
「準々決勝(智辯学園戦)は投げなくてもブルペンに入っていましたし、緊張感はずっとありました。連戦になると体以外のしんどさもありましたが、京都を代表して甲子園で試合をさせてもらっていますし、今までの対戦相手のことを考えると、しんどいとは言っていられないと」
ともにマウンドを分け合った西村一毅(2年)の存在も、じつに頼もしかった。西村も中崎と同じ4試合に登板し、24イニングで14奪三振、1失点(自責点0)。防御率0.00という圧巻の成績をあげた。
【センバツでは初戦敗退】
初優勝の立役者となったふたりの共通点は、春に苦い経験をしたこと。中崎は青森山田戦に先発するも、サヨナラ負けを喫し初戦敗退。西村に至っては、マウンドを踏むどころかベンチ入りメンバーからも漏れた。中崎が初戦で敗退したセンバツを振り返る。
「センバツで足りないと感じたのは、気持ち、冷静さ......いろいろありましたけれど、一番足りないと思ったのは、考える力です。一死三塁で、2人(走者を)出してもOKというなかでも初球から勝負してしまった。
厳しいところに投げきる力もなかったですが、観察力もなかったですし、対バッターのことしか考える余裕がありませんでした。(キャッチャーの)奥井(颯大)の配球は信頼していたけど、自分がまだまだでした。それに、自分はもっと周りを見て動けるようにならないと勝てないと思いました」
打者を見て、どう配球するべきか、周りの動きを読んで、どう対処するか。そこまで考える余裕もなく、とにかく打者を打ち取ることしか考えられなかったのだ。
春の府大会になると、台頭してきたのが2年生の西村だった。府大会決勝では1失点完投勝ちすると、春の近畿大会では初戦の明石商戦で7回1失点、決勝の智辯和歌山戦でも強力打線に臆することなく5安打2失点にまとめ、初優勝に大きく貢献した。
彗星のごとく現れた後輩を、中崎は「自分は先輩という立場ではあるんですけれど、同じピッチャーとして尊敬できる存在です」と言う。
冷静沈着な中崎に対し、西村はどこか天然気質で自分の世界を大事にするところがあり、性格は真逆だ。それでも同じ投手として並んで練習していくうちに引き込まれる空気感があったという。
そんなよきライバルであり後輩とマウンドを分け合ううちに、中崎の所作にもちょっとした変化があった。小牧監督が言う。
「今まで中崎は、自分のことで精いっぱいなところがあって......自分のことだけこなしていたらいいというか、そういうところが気になる部分ではありました」
中崎自身が"周りが見られていなかった"と言うように、それが普段の姿勢にもモロに出ていた。だが、センバツでの試合を通して猛省し、周りを見渡すことを心がけるようになった。
夏の甲子園では準決勝の青森山田戦で先発するも、4回2失点で降板。5回からマウンドに立った西村が2安打無失点と好投しチームはリベンジを果たしたのだが、決勝進出を喜ぶチームのなかでひとりだけ目を潤ませて肩を落としていた。
「自分が不甲斐ないピッチングをして、チームに迷惑をかけてしまった。申し訳なくて......」
エースとしてのプライドもあったのだろう。心を鬼にして挑んだ決勝戦では、3回まで無安打に抑える"完全投球"を披露し、4回以降も許した安打はわずか3本。延長タイブレークの10回に入ってからマウンドは西村に譲ったが、気迫溢れるピッチングでチームの新たな歴史を刻む立役者となった。
「気力があったからあそこまで投げられたというのはあるのですが」
【超えなければならない先輩】
夏の甲子園のマウンドで、中崎はあることを唱えながら投げていたという。
「『このボールで締めよう』とか『ここはこれで抑えよう』とか、ブツブツ言って自分に言い聞かせながら投げていたんです。口に出して言えば、何か変われるのかもしれないと思って......。実際に抑えられたので、言ってみるもんだなと思いました」
京都国際が勝ち進むたび、韓国語の校歌などグラウンド外のことが話題になった。それでも「応援してくれる人に感謝の気持ちを表したかった。だから、しんどいとも言っていられなかったというのもありました」と、中崎は振り返った。
京都国際に入学した春、チームのエースとして君臨していたのが森下瑠大(DeNA)だった。
中崎が「身近で尊敬できる先輩。こんな左ピッチャーがいるんだと驚きました」と、今でもリスペクトは止まない。その森下が2年生だった21年の夏の甲子園はベスト4だった。チームの成績としては森下を超えたが、個人としては「森下さんを超えたとは思っていない」と本人は言う。
「この2年半で大切だと思ったのは、"気づき"です。自分は今年の春に周りを見ることの大切さに気づけて、そこから成長できたことはあります。でも、もっと早く気づいていたら森下さんを超えられたのかもしれないと思っています。この2年半の反省を、これからの野球人生に生かしていきたい。今のままでは、まだまだ森下さんを超えられないです」
期待された新チームは府大会4回戦で京都外大西に2対3で敗れ、来春のセンバツ出場は絶望的となった。今秋、中崎から背番号1を受け継いだのが西村だった。
つづく>>