創価大を率いて6度目の箱根を迎える榎木監督創価大・榎木和貴監督インタビュー 前編(全2回) 國學院大、駒澤大、青山学院大の3強と言われる今回の箱根駅伝。その一角に割って入るかもしれないという予感を抱かせるのが、出雲駅伝、全日本大学駅伝ともに…
創価大を率いて6度目の箱根を迎える榎木監督
創価大・榎木和貴監督インタビュー 前編(全2回)
國學院大、駒澤大、青山学院大の3強と言われる今回の箱根駅伝。その一角に割って入るかもしれないという予感を抱かせるのが、出雲駅伝、全日本大学駅伝ともに4位だった創価大だ。チームを率いるのは榎木和貴監督(50歳)。2019年2月の就任以降、箱根駅伝では第97回大会(2021年)で往路優勝、総合2位に導くなど、5大会連続でシード権を獲得している。今回の箱根を前に「自分たちはもうシード権で満足するチームではない。そろそろ......」と意気込む指揮官に、まずは4年連続区間賞という偉業を達成した自身の箱根の記憶を振り返ってもらった。
【まったく緊張しなかった初の箱根】
榎木は宮崎県の強豪・小林高校から中央大に進学した。
「高校時代、12月になると、寮では都大路(全国高校駅伝)や箱根駅伝のビデオを流しながら食事をとるようになるんです。そのときに富永(博文)監督が中大時代に1区で先頭争いをしているビデオを何度も見て、白地に『C』が入ったユニフォームにあこがれを持つようになりました。いざ進路を決める際には、渡辺康幸さんや"三羽烏"(武井隆次、花田勝彦、櫛部静二)が活躍していた早稲田大にも憧れていたのですが、かなり門が狭く、ちょっと難しかった。最終的にいろいろ考えて、富永先生に中大に進学したいという意志を伝え、ちょうど中大からもスカウトの話があったので、進学することができました」
都大路を3年連続で駆け、駅伝を走る楽しさを身をもって理解していただけに、その最高峰の舞台とも言える箱根駅伝を目指すのは、榎木にとって自然な流れだった。
「高校で都大路を走っているときから箱根を走りたいという気持ちがありました。先輩たちも箱根駅伝を目指して各大学に進学されていましたので、自分もという気持ちが強かったです。ただ、中大は当時、箱根で常時3位以内に入っていて、強い選手がたくさんいたので、4年間で1回ぐらい走れればいいかなというくらいの感じでした。何区を走りたいとか、区間賞を獲りたいとか、具体的なものは何もなかったです」
第70回大会(1994年)、1年生の榎木は箱根駅伝の14名のエントリーメンバーに入り、8区をまかされた。
「最初はエントリーメンバー14名中、ギリギリで入ったような感じだったんです。経験や実績のある先輩がいたので、自分が走れるなんて全然考えていませんでした。直前の合宿で状態が上がってきて、最終的に2学年上の先輩と争う形になったものの、それでもまだ私は厳しいなと思っていました。でも、区間配置を決めていた碓井(哲雄)コーチが、8区に上級生を使うよりも1年生にチャンスを与えたいということで私に決まったんです。うれしかったですね」
初めての箱根は、まったく緊張しなかった。むしろ、大きな試合を楽しみたいと思い、自分が輝ける場で走れる幸せを感じた。沿道には人が重なるようにしており、耳が痛くなるほどの声援を受けた。榎木は1年生とは思えない堂々とした走りで区間賞(66分31秒)を獲得。区間記録にあと11秒と迫る好走を見せた。
「当時は1㎞3分0秒から3分5秒くらいのペースで押していけば区間賞を獲れました。今年の箱根でいえば区間18位のタイムなのでブレーキになりますし、ウチで8区を走った小池(莉希)が66分16秒だったので、あまり変わらないですね(苦笑)。また、この時は区間賞を狙って走ったわけじゃないんです。自分のペースを刻んで走ってゴールしたら区間記録まで11秒だったという感じで。もうちょっと頑張っておけば良かったなと思いましたね(笑)。満足というのもなかったです。同期の松田(和宏)は(エース区間の)2区で4位という結果を出していましたし、チームには強い先輩がたくさんいたので、松田や先輩たちとはまだ力の差があるなと思っていました」
【「メンバーから外してください」と直訴】
2年時は当初、8区ではなく他区間の予定だったが、調子が上がらず、「もう一度8区を走って区間記録を狙ってはどうか」と大志田秀次コーチに提案された。
「最初の10㎞は1年時より遅かったのですが、10区に頼れる先輩(佐藤信之)がいた安心感から後半は攻めることができました。15年ぶりとなる区間記録更新(66分03秒)で、復路優勝に貢献できたのはうれしかったですね」
3年時、中大は3大駅伝すべてで優勝を狙えるだけのメンバーを擁していたが、出雲では3位に終わり、全日本では最終8区で早大の渡辺に松田が逆転され、チーム全体で悔しさを噛みしめた。箱根は絶対に獲るとチームが結束するなか、榎木は往路区間の4区をまかされた。
「当時、エース格の選手は2区、4区と決まっていました。2区が松田なら4区は私というのがチームの共通認識としてあったのです。レースは良い感じで入れたのですが、ラスト3㎞のダラダラした上りで少しタイムを落としてしまいました。もう少し耐えられたらよかったのですが、それでも3年連続で区間賞を獲れて、チームも総合優勝できた。思い出に残る箱根でした」
4年時の箱根は、チームとしては2連覇、個人では4年連続での区間賞がかかっていた。しかも、榎木は主将となり、春先の5000mと10000mで自己ベストを更新し、多くの人が4年連続の区間賞獲得に期待をふくらませた。ところが、5月から貧血と坐骨神経痛に悩まされるようになり、調子が急降下した。出雲はメンバー落ち、全日本は4区11位となり、他のレースでも箱根メンバー入りのボーダーライン上の選手に勝てなかった。
「まったく本来の走りができなかったですし、貧血も治らない。同期の松田は『頑張れ』と言ってくれたんですけど、頑張ってもどうにもならない。だから、箱根のエントリーが迫ってくるなかで、(木下澄雄)監督に『メンバーから外してください』と直訴しました。すると、監督から『お前がキャプテンだし、お前が入らないとこのチームは成立しない』と言われたんです。そうまで言われたら、これは箱根にしっかり合わせるしかないと覚悟を決めました」
意を決した榎木は、卒業後の入社が決まっていた旭化成の延岡合宿に2週間ほど参加し、貧血の治療も行なった。12月、甲佐10マイルロードレースに出場すると、なんとかうまくまとめて走れた。ようやく箱根を走れる"兆し"が見えた。
「とはいっても、区間賞などまったく意識できなかったですね。連覇がかかっていることのプレッシャーというよりも、正直、最終学年なのに、なぜこんなに体調が整わないのか、その歯がゆさでいっぱいでした。なんとかスタートラインに立つまでは仕上げられたのですが、たぶん天候が良ければ凡走に終わっていたと思います。当日はものすごい強風で、それに助けられました」
【4年連続区間賞達成】
当日の4区は風速8mの強烈な向い風が吹き、選手を苦しめた。だが、榎木の前にはその風を遮ってくれる壁があった。4年連続の区間賞がかかっていたので、テレビの中継車が前についてくれていたのだ。
「中継車が風よけになってくれていたので、まずは前を行く3位の早大と4位の大東文化大に追いつこうと捨て身で攻めました。もういけるところまでいって、あとはなるようになるって感じです。16㎞過ぎに追いついたのですが、最後、足が残っていなかったので振り切られてしまって......。ただ、調子はもうひとつでしたが、攻めた結果、なんとか区間賞が取れたという感じでした」
チームは連覇を達成できず4位に終わったが、榎木は、史上7人目となる4年連続の区間賞の偉業を達成した。
「優勝はできなかったですが、すごく周囲に支えられたことを実感した箱根でした。特に、松田には感謝しかなかったです。3年の時、一番成長した時期に練習を一緒に引っ張って、夏合宿も声をかけ合ってチームのために頑張ってきました。自分が4年になって調子が上がらない時もすごく気遣いをしてくれて、常に寄り添ってくれた。出雲で私がメンバーに入れないなか、松田がアンカーで出て早大にラスト勝負で負けたんです。その時は、松田だけにまかせてしまったと大きな責任を感じました。箱根は、松田が最後まで励ましてくれた、その気持ちに応えたいと思って走りました」
榎木は4年間で総合優勝1回、区間賞4回という結果を残した。この経験は現在の指導者としてのあり方にどのような影響を与えたのだろうか。
「当時の中大は週2、3回程度しか指導者が来られなかったので、学生主体で普段の練習を回していました。自分たちが動かなければ何も動かない。ラクをしようと思えばいくらでもラクできる環境だったのですが、自分で目標を考え、自分を律して競技に取り組んでいました。その経験を生かして今、学生に『どういう走りをしたいのか、どういう選手になりたいのか、常に考えて日常の生活を過ごし、練習に取り組まないと目標は達成できない』と伝えています。箱根の経験というよりも中大で過ごせた経験が今もすごく生きています」
(つづく)
後編を読む>>箱根駅伝2025 打倒3強に燃える創価大学・榎木監督「ダークホースという評価はもういらない」
■Profile
榎木和貴/えのきかずたか
1974年6月7日生まれ。宮崎県立小林高校では全国高校駅伝で区間賞を獲得。中央大学では箱根駅伝で4年連続区間賞に輝き、3年時にはチーム14回目の総合優勝に貢献した。卒業後は旭化成に入社し、2000年別府大分毎日マラソンで優勝。2004年に沖電気陸上競技部コーチに就任。その後、トヨタ紡織陸上競技部コーチ、監督を経て、2019年に創価大学陸上競技部駅伝部の監督に就任すると、1年目の箱根でチーム史上初のシード権獲得、2年目で往路優勝、総合2位に導いた。