的場寛一氏は九州共立大で1年春からベンチ入り、青学大・井口のプレーに魅了された 大学球界のスター選手を研究した。元阪神ドラフト1位の的場寛一氏は九州共立大に進学してから飛躍したが、最初から順調だったわけではない。1997年の大学2年の全日本…

的場寛一氏は九州共立大で1年春からベンチ入り、青学大・井口のプレーに魅了された

 大学球界のスター選手を研究した。元阪神ドラフト1位の的場寛一氏は九州共立大に進学してから飛躍したが、最初から順調だったわけではない。1997年の大学2年の全日本大学選手権では初戦でチャンスに凡退して「もう地獄、最悪でした」と振り返る。それでも「もっとうまくなりたい」という向上心は1年生の時から旺盛だった。同じショートで3学年上の青山学院大・井口忠仁内野手や1学年上の近畿大学・二岡智宏内野手を徹底チェックしたという。

 愛知・弥富高(現・愛知黎明高)から九州共立大に進学した的場氏はやる気満々だった。「高校3年夏の大会が終わって(愛知大会準決勝で享栄に敗退)、すぐに(弥富の)金城(孝夫)監督に九州共立大の練習に行ってこいって言われて、夏休みに嫌やなぁって思いながら行ったんですけど、(当時4年の)大野倫さん(元巨人、ダイエー外野手)や(当時3年の)柴原洋さん(元ダイエー・ソフトバンク外野手)とかの練習がすごかったんですよ」。

 何から何までレベルの高い練習を一緒にさせてもらって気合が入ったという。「これは遊んでいたらアカン、九州共立大は強そうやって思ったら、もう何か早く入りたいなって気持ちにもなりましたね。ここでレギュラーになったら、プロにもなれるかもしれない。ちょっとワクワクした自分もいました」。翌1996年、まさしく期待に胸を膨らませての入学だった。九州共立大は福岡六大学野球リーグで1994年秋から優勝を続けていた。

 そんな中で的場氏は「1年の春からベンチに入れさせてもらって、試合にも出させてもらいました」。九州共立大は1996年春季リーグに優勝。6月の第45回全日本大学選手権は準優勝だった。「決勝は青学に負けました。その試合に僕は出ていませんけどね」。そこで魅入られたのが青学大・井口の姿だった。「こういう人がトップレベルなんだなって思いました。動きひとつひとつが華やかというか、スター性を感じました。走る姿もかっこよかったです」。

 そこから井口を研究したという。「決勝戦のビデオも見ましたし、大学野球の雑誌では井口さんの言葉を一言一句ね。どんな練習をしているのかとかもね。井口さんみたいにパワーとスピード、それに見栄えも揃っていないと(ドラフト)上位指名されないと思った。走る姿も意識して練習しましたよ」。そんな努力も実り、的場氏は1年秋からショートのレギュラーをつかんだ。とりわけ、守備には安定感が増していた。

近大・二岡の構えを徹底研究「分度器で測ったりもしました」

 九州共立大は福岡六大学リーグで1996年秋、的場氏が2年になった1997年春も優勝した。だが、第46回全日本大学選手権は初戦の2回戦で東農大生物産業学部に2-4で敗れた。その試合を的場氏は忘れられないという。「地獄というか、最悪でしたからね。ワンアウト満塁か、ノーアウト満塁で僕に回ってきたんです。そこで打っていれば勝てた試合なんですけど、きれいなピッチャーゴロでホームゲッツーを食らって……」。

 スタンドには両親や家族が観戦していた。「打ったらヒーローになるし、プロのスカウトも……って。それがゲッツー。先輩には申し訳ないし、親にも申し訳ないし、監督にも申し訳ない。そのまま一塁ベースを駆け抜けて球場の外に出たかったです」。相手はのちにオリックス、楽天でプレーした徳元敏投手。「サイドスローからのシュート気味のやつをピッチャーゴロ。技術がなかった。今でも目をつぶったら同じ軌道が出てきます」。

 この時は自信喪失気味になったそうだ。「試合に負けて、最後の試合だった4年生は泣いていましたし、あんなに反省した試合はないくらいです。本当にへこみました」。九州共立大は1997年秋季リーグも優勝。的場氏は何とか気持ちを切り替え、さらなるレベルアップを誓った。11月の第28回明治神宮野球大会は2回戦で近畿大学に0-3で敗れたが、この時は近大のショート・二岡のプレーに刺激を受けたという。

「スケールが違いましたからね。肩も強いし。二岡さんに追いつかないといけないなぁって思いました。二岡さんがバットを持って構えている写真が雑誌に出ていて、バットの握りとか、指はどのへんとかまで真似しました。角度とかも分度器で測ったりもしましたよ。結局、僕には合わなかったんですけど、そこからまたいろいろな握りとか勉強しましたね」。プロ野球選手になりたいという強い気持ちがそうさせた。それが次につながっていった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)