東京湾を臨むお台場のパラアリーナ。金属と金属がぶつかり合う鋭い音が響きわたる。ここで汗を流すのは、車いすラグビー日本代表の中町俊耶選手。東京パラリンピックで銅メダルを獲得。正確なパスワークを武器に成長を続ける期待の星だ。大怪我の直後、猛烈に…
東京湾を臨むお台場のパラアリーナ。金属と金属がぶつかり合う鋭い音が響きわたる。ここで汗を流すのは、車いすラグビー日本代表の中町俊耶選手。東京パラリンピックで銅メダルを獲得。正確なパスワークを武器に成長を続ける期待の星だ。
大怪我の直後、猛烈に誘われた車いすラグビー
小学校から大学まで、ずっと野球に打ち込んでいた。だが大学1年生の時、練習中の事故で頚髄を損傷。「病院に運ばれてからは、ずーっと本当に寝っぱなしで、首も動かしちゃダメって言われてました」
身動きできない重傷を負って2か月。「ようやく車いすに乗れるようになって、国立障害者リハビリテーションセンターに移りました」。そこで出会ったのが、年齢が同じ、障害も同じだった小川仁士選手。のちに、中町と共に代表入りし銅メダルを獲る男だ。車いすラグビーに猛烈に誘われた。「リハビリでもう疲れてベッドに座っているのに、『とりあえず降りろよ。こっちへ来いよ』って(笑)」。1年前に怪我をして、すでに車いすラグビーを始めていた小川選手は仲間を探していたのだ。「スポーツはレベルが上がれば練習は厳しくなるし、大変さをよく知っていました。だから障害を負ってまでできないと思っていたんです」。しかし何度断っても粘り強い勧誘は続いた。「『とりあえずやんなくていいから、1回見に来てよ』ということで、練習を見学することになりました」
“やばい競技”がくれた自立と自由
見学したとたん衝撃を受けた。「やばい競技じゃないですか。思いっきりぶつかって。しかも、自分と同じ障害を負っている人たちが、こんな激しい競技ができるんだって。めっちゃ速いし、かっこいい」。そして同時に思った。「自分も練習すればあんなふうに動けるのかなって。たぶんもう、自分の中でやりたい気持ちが芽生えていたんですよね」
退院と同時に練習に参加。「今までの自分の中の制限が、取り払われたような気がしました。スピードも出るし、クルクル回れるし自由を感じました。普段、車いすに乗っていると、必要以上に大事にされるというか、過剰に心配されるっていうか、俺これできるのに、何でも手伝われちゃう…。街で車いすで転ぶなんて考えられないじゃないですか」。でもラグビーは違った。「ゴロゴロ転んでは、スタッフさんに起こしてもらってすぐ試合再開。選手も自立していて、ラグビーしてる以外の日常生活でも、やれることは何でも自分でやれるところが、やっぱり自由でかっこいいと思いました」
一生なれないと思った「日本代表」
車いすラグビーは、障害の程度によって0.5点から3.5点までの持ち点があり、障害が軽い方が点数が高い。公平を期すため、コート内でプレーする4選手の合計点が8点までと決められている。「僕は障害のクラスが2点ですが、左手が少し動くので、ちょっと状態がいい方だと言われたんです。でも、いざ始めてみたら他の選手のレベルの高さに愕然としました。同じ2点どころか、0.5点の人のウォーミングアップにすらついていけませんでした。日本代表なんて一生なれないなって」
そんな始まりだったが「仁士や、ほかの選手も練習に誘ってくれて、車いすでの走り込みもしました」。1年半経った頃から、味方とのコミュニケーションで相手を抜くなど、ラグビーの動きが理解できるようになったという。「初めて同じ2点の選手を抜けたときは、自分、ちょっとうまくなってる!って、手応えを感じました」
2017年から日本代表強化選手に選ばれた。そのとき、当時の日本代表監督のケビン・オアー氏に「君は2.0だが、自分より点数の高い選手に対抗できるようになれ」と言われ、衝撃を受けた。「そんなの無理と思っていたけど、それができるなら、チームにはすごくプラスになります」。監督の言葉を胸に刻みつけた。「点数の高い選手が来たときは、まず走りで仕掛ける。ダメだったときに得意のパスを生かす戦略です」
実は左手だけは3.0kgの握力が残っている。野球で培ったサウスポーの、精度の高いパスは大きな強みだ。「ボールの安定したつかみには自信があります」
チームで長所を生かすことは、車いすラグビーの魅力でもあるという。「みんなそれぞれ障害が違います。それをお互いが理解し合いながら、できることできないことを見極めるんです。みんなでカバーし合って1つのゴールを目指す。これが好きなところです」
一瞬一瞬のベストをパリで
初出場の東京パラリンピックは銅メダル。「パリでは、金を取りたいです。でも金、金と欲を出すよりは、試合の一瞬一瞬に最善のプレーを積み重ねることが大事だと思います。チームで決めた戦術だったり、自分で思い描いてるプレーをしっかりコートの中で表現して、それがチームのためになればいいなと」。そして課題もしっかり意識する。「海外の試合に出ると『こんなことしてくるんだ⁉︎』と、思いがけないプレーに出くわします。そこに対応できる余裕が自分にはまだないので、そうした地力をつけていきたいと思います」
「東京パラのときは、自分が頑張ることに精一杯でした。でも今は、家族や友だち、支えてくれるみんなに、いい結果を出して恩返ししたいという思いも強いです。それが、選手としてできることだから」
悔しさを原動力に夢をつかみに行く
「高3最後の夏の大会では、ベンチ入りできなくて悔しい経験をしました。ラグビーでも『もう高校生のときみたいな思いはしたくない』という気持ちが根底にあります。当時と今とでは、考え方や取り組み方も全然違います。絶対に自分の夢をつかみたいという思いでやっています」
寝たきりから再びスポーツの世界に戻り、日本代表として活躍するまでになった。パリでどんな結果をつかみ取るのか楽しみだ。
【中町俊耶】
なかまち しゅんや●1994年8月30日生まれ、埼玉県北本市出身。小学校から大学まで野球をしていたが、大学1年の時、不慮の事故で頚髄を損傷し、両手と下半身に障害を負う。21才で車いすラグビーを初め、2017年から日本代表強化選手になる。東京2020パラリンピックに初出場し銅メダルを獲得。野球のピッチャー経験から精度の高いロングパスが強み。コロプラ所属。
【越智貴雄】
おち たかお●1979年、大阪府生まれ。大阪芸術大学写真学科卒。2000年からパラスポーツ取材に携わり、これまで夏・冬、11度のパラリンピックを撮影。2004年にパラスポーツニュースメディア「カンパラプレス」を設立。競技者としての生き様にフォーカスする視点で撮影・執筆を行う。写真集出版、毎日新聞の連載コラム執筆に加え、義足女性のファッションショー「切断ヴィーナスショー」や写真展「感じるパラリンピック」なども開催。ほかテレビ・ラジオへの出演歴多数。写真を軸にパラスポーツと社会を「近づける」活動を展開中。