7月14日から始まった大相撲名古屋場所(7月場所)は、初日から満員御礼。前売りチケットは、15日間すべて完売で、大相撲界は活況が続いている。 本サイトで長年、大相撲本場所の分析コラム『鉄人解説』を務めてきた錣山親方(元関脇・寺尾)が他界し…

 7月14日から始まった大相撲名古屋場所(7月場所)は、初日から満員御礼。前売りチケットは、15日間すべて完売で、大相撲界は活況が続いている。

 本サイトで長年、大相撲本場所の分析コラム『鉄人解説』を務めてきた錣山親方(元関脇・寺尾)が他界したのは、昨年12月のこと。60歳の若さだった。



昨年12月に逝去された錣山親方(元関脇・寺尾)の現役時

 土俵下で審判委員を務めた経験を生かし、現場でも鋭く厳しい視点で力士を叱咤する一方で、懸命に稽古に取り組む力士に対しては、愛情あふれる言葉で激励。親方のアドバイスに励まされたのは、錣山部屋の弟子以外にも数多くいる。

 元横綱・白鵬の宮城野親方もそのひとりだ。尊敬する昭和の大横綱・大鵬の優勝32回を目標にしていた白鵬は、それに並んで抜いたあと、目標を見失っていた。その後、Ⅴ37を達成したあとは、休場が続くなどして"強い白鵬"は影を潜めていた。

「そんなとき、錣山親方から声をかけていただいたんです。『横綱、力士は32歳からだよ』――この言葉が励みになって、『よし、もう一度がんばろう!』という気持ちになりました。親方は39歳まで現役を続けられましたが、30歳の頃、心身両面でスランプに陥ったそうなんです。ですが、気持ちを入れ替えて、32歳から新たな自分に生まれ変わったとおっしゃっていました」

 宮城野親方は、そう言って在りし日の錣山親方を懐かしむ。

 錣山親方こと、寺尾は1979年名古屋場所、16歳のときに初土俵を踏んだ。

 実家は父が師匠を務める井筒部屋。兄2人(長兄・鶴嶺山、次兄・逆鉾)も力士という相撲一家だ。当初、相撲には興味がなかったものの、1979年5月、最愛の母が夭逝。かねてからの母の願いは、「三男の好文(本名)にも力士になってほしい」というものだった。

 寺尾は高校を中退して、角界入り。四股名の「寺尾」は、母の旧姓である。

「井筒三兄弟」はファンの注目を浴びて、寺尾は一躍人気力士になった。1985年春場所(3月場所)、新入幕を果たすと、甘いルックスと筋肉質の体型に魅せられた女性ファンが続出。両国の井筒部屋には、連日"寺尾ギャル"が押し寄せた。ファンレターはコンスタントに1日20通。バレンタインデーには、毎年ダンボール3箱ものチョコレートが届いた。

 寺尾の持ち味は、回転のいい突っ張り。どんなに大きな力士にも、立ち合いから果敢な突っ張りを見せて、そのスタイルを貫いた。また、「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)の一員でもあった。寺尾を含め「サンパチ組」は、横綱・北勝海、大関・小錦、関脇・琴ヶ梅ら錚々たるメンバーが揃っていたが、寺尾自身は「オレは"サンパチ組"のおまけだから」と、人気に溺れることはなく、常に謙虚だった。

 そんな寺尾にとって、忘れられない一番がある。

「若貴兄弟」として入門時から注目を集め、異例のスピード出世で幕内に昇進した18歳の貴花田(当時、のち貴乃花)との取組だ。

「自分は28歳で、彼より10歳年上。相撲界に入ってまだ3年。学年で言えば、高校3年生。『そんな若造に負けられないよ!』と思っていたのに、負けちゃった。あのとき、花道でさがりを叩きつけて悔しがった自分の態度に批判の声もあったけれど、それくらい悔しくて忘れられない一番です」

 1991年春場所の出来事を、ついこの前の出来事のように振り返る寺尾。その後、貴花田は貴乃花として大横綱への道を歩むことになるのだが、2002年秋場所(9月場所)で寺尾が現役を引退。それから4カ月後の2003年1月、貴乃花も引退し、互いに相撲部屋の師匠として、若い力士を育成する立場となった。

 2004年1月、井筒部屋から独立して錣山部屋を創設した当初、弟子は3人。部屋の建設が間に合わなかったため、賃貸マンションの一室を相撲部屋とし、稽古場は近くの物流倉庫の一角に構えてのスタートだった。

 初期メンバーのひとり、豊真将(元小結=現・錣山親方)は相撲の素質がありながら、日大相撲部を退部。将来を決めかねていたところを拾われた。40代前半の親方は、稽古土俵で自ら胸を出して豊真将を鍛えた。ときに鉄拳も飛ぶなか、期待に応えた豊真将は約2年で十両昇進を決めた。

 なお、部屋のなかで、弟子同士が諍いを起こしたときは、「どんなにケンカをしても、最後にはちゃんと仲直りをしろ! 同じ釜の飯を食べる兄弟弟子同士がいがみ合うなら、オレも混ざってケンカするぞ!」と言って聞かせたという。

 2006年に入門して、マンション住まいを経験した寺尾海が今年6月に行なわれた自身の断髪式の場で当時のことを振り返っていた。

「師匠なりのケンカ両成敗。これが効くんですよ(笑)。私生活でも稽古場でも厳しい師匠でしたが、"優しさ"があったから、みんなが付いていったんです」

 部屋の出世頭でもある関脇・阿炎が入門したのは、2013年のこと。18歳。ヤンチャな堀切少年(本名・堀切洸助)を見た瞬間、無限の可能性を感じた親方の目に狂いはなかった。

 阿炎は、所要10場所で新十両に昇進。親方は、自らの少年時代のニックネーム「アビ」を「阿炎」という漢字に変えて四股名を与え、さらなる飛躍を期待した。

 番付のアップダウンが激しく、決して順調な歩みとは言えなかった。そうしたなか、2020年名古屋場所、阿炎の相撲協会のガイドライン違反が判明。出場停止処分になった。

 このとき、師弟は引退届を提出した。しかし受理されることなく、阿炎は幕下下位から出直しすることとなった。

 そこから、阿炎は自らの力で這い上がった。そして、2022年九州場所(11月場所)、幕内最高優勝を成し遂げる。

 東京の病院に入院中だった親方は、病室のテレビで、阿炎の初優勝を見守った。その際、無意識のうちに病室のビニール製のカーテンを握り締めていたという。

「師匠には迷惑ばかりかけましたが、これで、ようやく少し恩返しができました」

 阿炎から親方への"最高のプレゼント"から、わずか1年。持病の心疾患の急変で、錣山親方は帰らぬ人となった。

 阿炎は言う。

「『必ず大関になります』と生前の師匠と約束をしたんです。この約束を果たすため、名古屋場所も全力を尽くします」

 先の夏場所(5月場所)では優勝戦線に絡み、ふた桁勝利を挙げた阿炎には、昇進のチャンスが広がっている。

 主亡きあとの錣山部屋は、初期メンバーの豊真将が引き継ぎ、新師匠に納まった。阿炎の大関挑戦、そして豊真将の師匠としての指導ぶりに、親方は天国からエールを送っていることだろう。



錣山(しころやま)親方
元関脇・寺尾。1963年2月2日生まれ。鹿児島県出身。現役時代は得意の突っ張りなどで活躍。相撲界屈指の甘いマスクと引き締まった筋肉質の体つきで、女性ファンからの人気も高かった。2002年9月場所限りで引退。引退後は年寄・錣山を襲名し、井筒部屋の部屋付き親方を経て、2004年1月に錣山部屋を創設した。以降、後進の育成に日々力を注いでいたが、2023年12月、持病の急変によって逝去。60歳だった。