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阿波野秀幸インタビュー(後編)

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中編:阿波野秀幸が振り返る感動のリーグ制覇からの悪夢の日本シリーズはこちら>>

 入団1年目から3年連続200イニング以上を投げるなど、近鉄の絶対エースとして活躍していた阿波野秀幸だったが、90年の10勝を最後に成績は下降線をたどる。その後、95年から巨人で3年間プレーするも0勝。しかし、98年に移籍した横浜ではリリーフとして50試合に登板し、日本一に貢献。阿波野秀幸が激動の現役生活を語った。


1998年に横浜に移籍し、リリーフとして50試合に登板し日本一に貢献した阿波野秀幸氏

 photo by Sankei Visual

【近鉄入団は想定外だった】

── そもそも1986年のドラフトでは、近鉄のほかに大洋(現・DeNA)、巨人も1位で指名されました。

阿波野 地元の大洋や巨人は、亜細亜大の矢野祐弘総監督や僕に事前にあいさつしてくれていましたし、意中の球団でした。そんななか、スカウト同士の駆け引きもあったのか、当日、突然指名したのが近鉄だったんです。

── 近鉄は想定外だったのですね。

阿波野 はい。ただ、近藤真一(享栄高)が5球団競合の末、地元・中日の星野仙一監督が引き当てました。「5分の1より、3分の2のほうが確率は高いな」という周囲のムードのなか、交渉権を獲得したのが近鉄だったわけです。

── どういう心境でしたか。

阿波野 僕としては、近鉄に対しての感情というよりも「今後どうなるんだろう?」という思いのほうが強かったです。意思表示もなく参戦してきたことに矢野総監督は憤っている様子でしたから。だから、指名後に部員によるお決まりの胴上げや、交渉権を得た球団の帽子を被っての撮影などはいっさいありませんでした。

── それでも近鉄入りを決断した理由は?

阿波野 結局、「最終的にプロに進むなら、社会人野球に進んで2年を費やすより、投手寿命を考えると旬のうちに勝負すべき」と。それに「近鉄は投手陣が少し弱いようだから、早いうちからチャンスがあるだろう」ということで、(近鉄入りへの)結論に至りました。行くからには、関東と生活環境の違う関西ですし、命をかけて1年目から結果を残す覚悟でした。

── 当時、目標としていた投手は?

阿波野 子どもの頃は、オールスターで9連続三振を達成した江夏豊さん。その後は大野豊さんや川口和久さんという、自分に似た細身の左投手です。巨人に立ち向かう姿が印象深かったです。

── 何度も聞かれたと思いますが、「トレンディエース」と呼ばれたことに対して、どんな心境でしたか。

阿波野 当時は「トレンディドラマ」が流行っていて、それに被せられましたね。取材において、技術的な内容ではなく、開口一番そう言われることに「またか......」と思うことはありましたが、当時のパ・リーグはメディアの露出がほとんどなかったので、注目されることに関して抵抗はありませんでした。

── もうひとりのトレンディエース、西崎幸広さんへのライバル心はありましたか。

阿波野 西崎は日米大学野球の日本代表メンバーだった頃からの知り合いです。利き腕の左右の違いはあれど、細身の体型は似ていましたね。当時のプロ野球界のファッションは、パンチパーマにストライプの入った黒系のスーツが基本でした。僕たちはパンチパーマではなく、ジャケットにチノパン、そういうスタイルが野球界では新鮮だったのでしょうね。

── 成績に関してはどうでしたか。

阿波野 「3年やって一人前だぞ」と周囲に言われたこともあって、プロ入り3年間は200イニングを投げ、そこに"猛牛打線"の援護にも恵まれました。1年目に15勝で新人王、2年目は14勝、3年目は19勝で最多勝。当時、ダントツの強さを誇った西武での先発が多く、西崎との直接対決は少なかったですが、刺激を与え合うライバルだったことは間違いありません。

【ドラフト指名された3球団で優勝を経験】

── 90年に10勝を挙げますが、それ以降は不調に苦しみました。原因はなんだったのですか。

阿波野 いくつもの要因が重なった結果でした。ひとつは、プロ入りしてから3年連続で200イニング以上投げたこと。それに、メディア露出の少ないパ・リーグを盛り上げるために、オフのイベントにも参加したりして、疲労はかなり蓄積していました。次に90年に左膝にライナーを受けて骨折したこと。その時点で9勝だったですが、無理して10勝に到達させました。下半身をケガすると、どうしてもかばって投げるから肩・ヒジに影響が出てきます。さらに相手チームの研究もありました。審判お墨付きの一塁牽制を西武に「ボークだ!」と指摘されました。それからクイックを練習したり、いつもどおりの投げ方ができなくなり、ヒジを痛めてしまった。今ならトミー・ジョン手術という選択肢もあったのでしょうね。

── 近鉄時代の仰木彬監督の「マジック」とは、具体的にどのようなものだったと思いますか。

阿波野 仰木監督には5年間お世話になりました。主力投手として信頼してくれたし、故障してからもアテにしてくれたことがうれしかったですね。仰木監督の野球は、データと選手の気持ちを融合させた采配です。たとえば、代打で4打数1安打の打者がいたとします。その実績をちゃんと覚えていてくれるんです。そんなに打っているわけではないのですが、「おまえ、いいところで打っているじゃないか。自信を持って行ってこい!」と送り出されると、「よし、やるぞ!」という気持ちになりますよね。それに子どもが生まれた日に試合に出してくれれば、選手は張りきります。

── 移籍した巨人では96年にリーグ優勝。さらに98年は横浜で日本一を経験されました。「すべてが10・19からつながっている」というコメントを残されています。

阿波野 横浜では近鉄時代の投手コーチだった権藤博さんが監督を務めていて、僕をマウンドに送ってくれました。日本一を決めた西武との第6戦、0対0の8回表一死二塁で登板。3番の髙木大成をセカンドゴロ、4番の鈴木健をレフトフライに打ちとりました。

── 『10・19』からつながっているという理由は?

阿波野 思えば88年の『10・19』では、捕手・山下和彦のストレートのサインに首を振って、高沢秀昭さんにシンカーを同点本塁打にされました。だから、89年の近鉄が優勝を遂げた試合で、最後の打者には全球ストレートを投げました。この日本一を決めた登板でも、谷繁元信とバッテリーを組み、攻める気持ちでストレートを投げ込んだのです。そういう意味で、『10・19』からつながっていたわけです。

── ドラフト1位指名された3チームで、優勝の美酒に酔ったのですね。

阿波野 僕が唯一のようです。まあ、ドラフト1位指名を受けたほかの2球団にもその後、移籍するのは珍しいかもしれません。98年はリリーフで、シーズン50試合に登板しました。

── 失礼ながら、巨人の3年間は未勝利でしたが、その巨人で13年間も投手コーチを務めたのは、貢献度が高かったということでしょうね。

阿波野 自分でも不思議ですね。セ・パを経験し、先発とリリーフの両方を経験したのがよかったのでしょうか。コーチでは二軍、育成を含めていろいろと勉強させていただきました。

── 阿波野さんのコーチとしてのポリシーは何ですか?

阿波野 どうやって"気づかせるか"なんですよ。長所も短所も、タイミングを見て導いてあげることです。そして"牽制"や"外国人打者との対戦"など、投手としてのアイテムを増やしてあげること。そこは意識してやっていました。

阿波野秀幸(あわの・ひでゆき)/1964年7月28日、神奈川県出身。桜丘高から亜細亜大学を経て、86年のドラフトで近鉄、巨人、大洋による競合の末、近鉄が交渉権を獲得し入団。入団1年目に、最多奪三振王(201個)、新人王のタイトルを獲得。88年、伝説となる「10.19」のダブルヘッダーに連投し悲劇を経験。89年、最多奪三振(183個)と最多勝利(19勝)のタイトルを獲得し、悲願のリーグ優勝を果たす。その後、95年に巨人、98年に横浜(現・DeNA)に移籍。98年は50試合に登板するなど日本一に貢献。2000年に現役を引退。現役引退後は巨人、横浜、中日のコーチを歴任。現在は解説者として活躍の傍ら、ジャイアンツアカデミーのコーチも務めている