【短期連載】五輪サッカープレイバック第2回/2012年ロンドンオリンピックパリ五輪開幕までまもなく――という状況を受けて、五輪サッカーの歴史を少し振り返ってみたい。ここでは、直近4大会における選手選考や成績、さらにはその後の選手の活躍などを…

【短期連載】五輪サッカープレイバック
第2回/2012年ロンドンオリンピック

パリ五輪開幕までまもなく――という状況を受けて、五輪サッカーの歴史を少し振り返ってみたい。ここでは、直近4大会における選手選考や成績、さらにはその後の選手の活躍などを顧みつつ、当時の時代背景や、現在との違いなどに迫ってみたいと思う。第2回は、2012年ロンドン五輪だ――。

 日本サッカー史に燦然と輝く、1968年メキシコ五輪での銅メダル獲得。その再現に最も近づいたのは、2012年ロンドン五輪である(2021年東京五輪でも同様の結果を残すが、それはまたあとの話だ)。

 五輪が基本的に23歳以下の大会と位置づけられて以降、日本はロンドン五輪で5大会連続の本大会出場だったが、2008年北京五輪までの4大会でグループリーグを突破できたのは、2000年シドニー五輪の一度だけ。ようやく世界への扉は開かれたものの、その先へもう一歩踏み出すことが、なかなかできずにいた。

 そんな時、日本がさらにもう一歩も二歩も前に進んだのが、ロンドン五輪だった。

 ロンドン五輪の登録メンバーで最も注目されたのは、アジア最終予選で攻撃の中心を担っていた大迫勇也の落選と、対照的に最終予選では出番を減らしていた永井謙佑のメンバー入りである。

 その選考は、選手個人の優劣というよりも、チームとしての戦い方の変化によるものだった。

 さらに時間をさかのぼれば、この世代は当初、永井のチームだったと言ってもいい。

 チームが立ち上げられて最初に臨んだアジア大会(中国・広州)で金メダルを獲得できたのも、永井の活躍によるところが大きかった。

 だが、ロンドン五輪アジア予選が進むなかで、ポゼッション志向を強めていったチームは、前線の軸にポストプレーに長けた大迫を据えるようになる。本大会への出場権獲得に、大迫が大きく貢献したことは言うまでもない。

 ところが、ロンドン五輪を前にトゥーロン国際トーナメントに出場したチームは、ポゼッションの限界を示してしまう。

 ボールは保持できてもゴールに近づけず、焦って縦に急げば、大迫が孤立する。そんな試合が続いた。

 そこで関塚隆監督は、本番を前に戦術の方向転換を図る。

 すなわち、永井をはじめ、大津祐樹、東慶悟ら、スピードと運動量に優れた選手を生かしたハイプレスをベースに、カウンター志向へと転換したのである。


ロンドン五輪で日本の躍進に大いに貢献した永井謙佑

 photo by Jun Tsukida/AFLO SPORT

 実際、永井の起用は見事にハマった。

 ハイプレスの先導役となった永井は、グループリーグ初戦では優勝候補のスペインを封じ、続くモロッコ戦では試合終盤、相手DFラインの背後へ走り込み、値千金の決勝ゴールを決めている。

 東が当時、「(ハイプレスがハマって)取りたいところでボールが取れるというより、取れないところまで取れるという感じだった」と話していたが、そこに大きく影響していたのは、永井のスピードだっただろう。

 と同時に、チームの快進撃を頼もしく支えていたのが、オーバーエイジで加入した2選手。ともに自分たちの世代で五輪に出場した経験を持つ、吉田麻也(北京五輪出場)と徳永悠平(アテネ五輪出場)だった。

 吉田はセンターバックを、徳永は左サイドバックを、それぞれ務め、守備を強化。加えて、試合運びに拙さを見せることが少なくなかったチームに精神的な安定をもたらし、拮抗した試合を粘り強く戦えるチームへと変貌させた。

 とはいえ、優勝候補のスペインさえも飲み込んだハイプレスは、その絶大な威力と背中合わせの激しい肉体的負担を日本の選手たちに強いていた。

 試合を重ねるにつれ、明らかに消耗していった選手たち。グループリーグ2連勝で決勝トーナメント進出を決めたため、第3戦(0-0ホンジュラス)では主力を温存できたことで準々決勝のエジプト戦(3-0で勝利)はいくらか回復していたものの、もはや限界が近づいていた。

 準々決勝までの4試合は無失点だったチームも、準決勝のメキシコ戦では大津の強烈なミドルシュートで先制しながら、その後に3点を奪われて逆転負け。さらには、韓国との3位決定戦でも0-2の完敗を喫し、44年ぶりのメダル獲得はならなかった。

 しかしながら、大会前にはお世辞にも大きな期待を集めていたとは言い難いチームが、シドニー五輪以来の決勝トーナメント進出どころか、メキシコ五輪以来のメダル獲得まであと一歩に迫ったのである。

 日本が世界と戦っていくため、どうすればいいのか。その可能性を示すという点で、この世代が五輪本大会で準決勝まで勝ち上がった意味は大きかった。

 合わせて、五輪年代の選手が持つ未知なる可能性を示したという点で、特筆しておくべき選手もいた。

 それが、山口蛍である。

 このチームがアジア大会で金メダルを獲得したことは前述したとおりだが、当時はJリーグの日程との兼ね合いがあり、ベストメンバーを編成できずに大会に臨まなければならなかった。

 各クラブで主力になりきれていない選手に大学生を加えた顔ぶれは当時、「1.5軍」あるいは「Bチーム」とも称された。

 だが、そこに名を連ねていた山口は、ロンドン五輪でもボランチの主力として全試合に先発フル出場したばかりか、その後はA代表の常連となり、2014年ブラジルW杯、2018年ロシアW杯にも出場している。

 20歳当時は、「Bチーム」と称されるメンバーに名を連ねていた選手が、である。

 シドニー世代や北京世代に比べると、ロンドン世代には、五輪本大会の登録メンバーからのちにワールドカップ出場を果たした選手は多くない。

 それでも、そのなかに山口のような選手が含まれているのだから、五輪年代の成長力は容易に予想ができず、また侮れないものである。

◆ロンドン五輪代表メンバー ※OA=オーバーエイジ
【GK】権田修一、安藤駿介【DF】徳永悠平(OA)、酒井宏樹、吉田麻也(OA)、山村和也、酒井高徳、鈴木大輔【MF】扇原貴宏、村松大輔、東慶悟、宇佐美貴史、山口蛍、清武弘嗣【FW】大津祐樹、杉本健勇、永井謙佑、齋藤学