連載 怪物・江川卓伝〜大学ラストイヤー(前編) 法政大4年になった江川卓にとって、二度目のドラフトイヤーである。自身の価値を上げるためにも、大学ラストイヤーはしっかり投げないといけない。江川は大学最後の1年を悔いなく投げようと心に誓った。【…

連載 怪物・江川卓伝〜大学ラストイヤー(前編)

 法政大4年になった江川卓にとって、二度目のドラフトイヤーである。自身の価値を上げるためにも、大学ラストイヤーはしっかり投げないといけない。江川は大学最後の1年を悔いなく投げようと心に誓った。

【圧巻の防御率0.38で3連覇達成】

 1977年の東京六大学春季リーグ戦は法政大が10勝3敗で優勝を飾り、リーグ3連覇を達成した。江川は8試合(72イニング)に投げて、8勝0敗、防御率0.38、失点3、奪三振62と、完璧な投球を披露。慶應義塾大との3回戦では、前年から続いていた無失点記録が33回で途切れたものの、危なげない投球で楽々の完投勝利。当時、慶應の4番を打っていた堀場秀孝は言う。

「高校時代に一回だけ練習試合で対戦したことがあったけど、手も足も出なかった。大学になってからは投球術っていうか、相手バッターを見ながら投げていた感があった。だから、下位の打者にポーンと打たれたりする。本当に抑えにいって、打たれたのはなかったんじゃないかな。高校の時もそうだと思いますよ。ランナーを背負ったら、必ず抑えるという自信があったんでしょう」

 堀場は大学時代、江川からホームランを打っている。江川が大学4年間で、最も不調だった大学2年秋のリーグ戦で、1回戦の延長12回にソロ本塁打を放った。

「あのホームランの時の球は本気だとは思ってないです。延長12回ですし、前打者の後藤(寿彦)さんがホームランを打って気落ちしたというのもあっただろうし......。緊張の糸が切れたというか、フッと息を抜いた感じで投げてきたんじゃないですかね」

 堀場の言葉は、謙遜ではなく本音だったはずだ。江川の本気の球を一度でも見た男にしてみれば、大学2年秋のボールはスピードも迫力も感じなかったのだろう。

【遅刻に島岡吉郎が大激怒】

 そしてリーグ戦が終わると、江川は金光興二、植松精一らとともに日米大学選手権の日本代表に選ばれた。江川が日本代表に選ばれるのはこれで3回目だ。初めて選ばれたのは、大学2年の時。巨人で同僚だった中畑清がこんな話を披露してくれた。

「オレが(駒沢)大学4年の時に、同志社大の田尾安志らと日本代表に選ばれて合宿をやったときのこと。江川と駒沢で一緒だった山本(泰之)が練習に遅刻したんですよ。オレたちはランニングをしていたんだけど。すると総監督だった明治の島岡(吉郎)さんが怒りまくって......。江川を正座させて『おまえ、野球を舐めてるのか!』と、まあ制裁がすごいわけですよ。『野球ができない体にしてやる!』と、バッシバッシやってるわけ。今では考えられないけど(笑)。さすがに、ランニングしていたオレたちもまずいと思って、頭を下げて止めにいったけどね」

 明治の島岡御大の厳しさは、今に始まったことではない。スター選手が揃う日本代表でもお構いなしだ。

 そんな大学日本代表だが、江川と並び話題をさらったのが、東海大の1年生・原辰徳だった。マスコミは4年の江川と1年の原を新旧スターとして担ぎ出そうとする。

 合宿前の全日本大学野球選手権で夢の対決があるかと思われたが、法政が準々決勝で敗れてしまい、お預けになった経緯もあり、6月15日から24日までの10日間の合宿では、ほかの選手をよそに江川と原の一挙手一投足に注目が集まった。

 原はアマチュア球界の名将・原貢の息子として生まれ、東海大相模高1年夏から甲子園に出て、持ち前のルックスと強打で一躍人気となり、大学を経て巨人にドラフト1位指名された生粋のスター選手だ。

 そんな原が江川の球を初めて間近で見たのは、前年の大学日本代表チームと三協精機との壮行試合。前座で東海大相模と松商学園が対戦し、試合後、スタンドから江川の投球を見守った。江川のボールを見た原は、異常とも言える伸びに驚いた。

 ちなみに 原貢の名が一躍全国区になったのは、1965年夏の甲子園で三池工業(福岡)の監督として、チームを初出場初優勝に導いた時だ。翌年から東海大相模高の監督となり、70年夏の甲子園で全国制覇。74年から長男の辰徳が入学し"父子鷹"として話題になり、ここから3年間"原フィーバー"がつづくわけだが、指導の厳しさは全国でも屈指と言われていた。選手のことをめったに褒めない原貢だったが、江川のことだけは感心したという。


原辰徳(写真右)との初対決でホームランを打たれるも、最後は3球三振で打ちとった江川卓

 photo by Sankei Visual

【原辰徳との初対決】

 東海大相模高のショートとして活躍した"江川世代"の林裕幸が、当時を述懐する。

「東海大相模と作新は毎年定期戦を行なっており、高校3年の6月に作新学院のグラウンドで練習試合をしました。雨でグラウンドがぬかるんだ状態で試合が始まって、0対0の終盤、相模に二死三塁と先制のチャンスが来たんです。打席には左の俊足打者が入り、オヤジ(原貢)は一か八か、セーフティーバントのサインを出したんです。うまく三塁側に転がし、江川が猛ダッシュしてボールをつかもうとした瞬間、足をとられて尻もちをついてしまった。『点が入ったぞ!』と喜んだのも束の間、江川は尻もちをついたままボールを取って、一塁にひょいと投げてアウトにした。試合後、オヤジは呆れ顔でこう言っていました。『江川はすごい。あのときは点が入ったと思った。ありゃ、大物だわ』と。あのオヤジを感心させたんだから、やっぱり江川はすごいですよ」

 原貢がひとりの選手を褒め称えることなど決してしなかっただけに、選手たちはなおさら江川のすごさを身にしみて感じたらしい。そういった経緯もあって、1977年秋の神宮大会決勝で法政大と東海大が対戦する際、試合前に江川と原貢は会って言葉を交わしている。原貢は辰徳が大学に進学するにあたり、東海大相模から東海大の監督に就任していた。

 11月6日、秋空に似つかわしくないほどの雲ひとつない快晴。大学球界のスーパースター・江川卓と次代を担う原辰徳の対決に、神宮球場は4万人を超す観客で埋め尽くされた。

 第1打席は、江川が原をキャッチャーフライに仕留めた。だが第2打席、原は江川のストレートをレフトスタンドに軽々と運んだ。スタンドからは、女性たちの黄色い歓声が湧き上がる。第3打席は、江川のカーブを引っ掛けるも、三遊間の深いところに打球が飛び内野安打。原は江川からホームランを含む2安打と気を吐いた。

 試合は、法政大が東海大のエース・遠藤一彦に集中打を浴びせ逆転。そして最終回、5対2と法政リードの場面で、原にこの日4回目の打席が回ってきた。

 江川はホームランを打たれたことを少しだけ気に病んでいたのか、この打席に限って本気で投げた。すべてストレートで3球三振。原は「今までの球は何だったんだ?」と呆然とした表情を浮かべ、江川の本当のすごさをようやく体感したのだった。

後編につづく>>

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している