スタート直後、左足が地面を蹴ると、引き締まった筋肉から血管が浮き出る。右のカーボン製の義足が瞬時に前へ出る。左右の脚が異なる音で地面を叩く。そのテンポが一瞬で加速し、日焼けした体は弾丸のように風を切っていく。昨年のアジアパラ大会200mで、…

スタート直後、左足が地面を蹴ると、引き締まった筋肉から血管が浮き出る。右のカーボン製の義足が瞬時に前へ出る。左右の脚が異なる音で地面を叩く。そのテンポが一瞬で加速し、日焼けした体は弾丸のように風を切っていく。昨年のアジアパラ大会200mで、アジア人初の22秒台を記録した義足のスプリンター井谷俊介だ。


交通事故からのパラ陸上との出会い

地元に鈴鹿サーキットがあり、本気でカーレーサーになりたいと思っていた大学2年生のとき(2016年)、バイクの事故で右足のひざ下を切断。以来義足生活となった。「退院して大学に通うことになって、自分が障害者だということを身にしみて感じ…、そんな自分を受け入れられず、すごく落ち込みました」

そんなとき母親が、三重県の義足のランニングチームに関する新聞記事を思い出し見学に行った。「子どもからおじいちゃんまで、ワーッと走ってたんです。きっと障害者だから元気ないんだろうって勝手に思っていましたが違いました。みんなめっちゃ元気でめっちゃ笑ってるんです」。気づくと自分も走っていたという。

「地面を蹴って走るのは数ヶ月ぶりで、素直に楽しく気持ちよかったです。障害者だからどうとかいう考えがちっぽけに思えて、ネガティブな気持ちがなくなりました。これが陸上との出会いです」

自分が笑顔になれば母親も喜んでくれる。義足で走る動画を見せれば友人たちも喜んでくれた。「じゃあ、パラリンピックに出たら、もっとみんなが喜ぶだろう。」井谷はこのとき夢をもったのだった。「野球少年がメジャーリーガーになりたい!と思うように、東京パラに出よう!と思ったんです」


追いかけた夢の東京パラリンピック

「走るのは楽しいって心から思えました。先にゴールした人が勝ちという、単純でわかりやすいところが魅力ですね」。2018年から仲田健トレーナーに師事し、短距離走の本格的な練習を始めた。めきめき頭角を表し、2019年11月、ドバイで開催されたパラ陸上の世界選手権では決勝に進出した。 「細かいことをコツコツ積み重ねてタイムがボーンと出たときは、強い達成感を感じます」

だがこの後、 コロナ禍のため状況が変わった。練習は基本一人ですることになり、これが井谷にとって裏目に出た。「このままいけば、パラリンピック出られる。」という慢心と、自分への甘さのため、自覚がないまま練習がおろそかになっていった。仲田トレーナーに、練習の報告やスケジュールの共有を怠ることもあった。

仲田トレーナーからは「天狗になって調子づいてるぞ。自分を見失っているぞ。がんばってると言うが、自分で満足しているだけじゃないか。」と叱責を受けたが、厳しく言われても当時は全く響かなかった。それでいて東京パラの選考が近づくと、不安と焦りが大きくなった。「みんなを喜ばせたい」という気持ちから追いかけた夢だったが、ライバルに抜かれ、東京パラ出場を逃した。

“人生で一番ポンコツな自分”からの仕切り直し

「本当に堕落した夏を過ごしました。人生の中で一番ポンコツな井谷俊介でした」。練習に行っても課題を持たず、テンションは上がらなかった。毎日酒を飲み、友達と朝まで平気で遊んだという。だが楽しいと思って遊んだものの心は満たされなかった。そんな活力のない生活を続け、寂しさを感じたまま11月を迎えようやく気づいたという。

「ぼくは、みんなに喜んでもらおうとしたつもりだったけど、実はそうじゃなかったんです。ほめられて、すごいと言われたいだけでした。有名になりたい、メダルを取ってみんなからチヤホヤされたい、と自分のことだけを考えていた」と当時を思い出す。「健さんから、自分を見失っていると言われた意味が、やっとわかりました」。それと同時に陸上へのモチベーションも戻ったという。「口もきかないくらいギクシャクした関係になっていましたが頼みました。『健さん、もう1回一緒にがんばらせてください』と」。初心にかえった井谷は、再び練習に打ち込むようになった。

引退を考えた大会がターニングポイントに

パリパラリンピックに向けてもう一度走り出し、引退も視野に入れつつ臨んだ地元での伊勢大会。前日に「明日、だめでもよくても、みんなが喜んで終わればいい。みんなが喜んでくれる走りをしよう」と、心に決めたという。結果は自己新記録だった。「限界は自分で決めるものではない。自分で自分を諦めてはだめだし、自分を信じてやれるのは自分だけだ、と思いました」。そしてスタンドには、喜んでいる家族や友人たちの姿があった。「やっぱり幸せを感じました。僕以上に僕を思って一緒に悲しんで喜んでくれる人がまわりにいたんです」

この試合は井谷にとってターニングポイントになった。「自分は東京パラに出られなくて、むしろよかったと思います。出ていたらずっと思い上がって勘違いしたまま、競技者としてはもう終わっていたと思いますね。出られなかったからこそ、また強い方向に進めたんです」。そして「自分は今でこそちゃんとしたアスリート」と感じられるようになったという。


やれるところまで挑戦し続ける

「今、自分の人生がすごく好きだと思えています。人と比べず、自分がいかにその日を満足してるかどうかが大事です。自分を大切に思えるようになったことで、まわりの人のことも思えるようになりました」。気負わずそんなふうに考えられるようになった。「パリパラリンピックでメダルをとる!というよりも、あくまでも自分の走りで、みんなに喜んでもらいたいんです」

パリパラリンピックが終わっても、大会や試合は続いていく。井谷はきっぱりと言った。「ずっと陸上競技で挑戦し続けたい。本当に心から楽しいなと思えるので、やれるところまでやりたい。引退は今考えていません」

【井谷俊介】

いたに しゅんすけ●1995年4月2日生まれ、三重県大紀町出身。大学在学中、交通事故により右脚下腿部を切断。2018年1月から本格的に陸上のトレーニングを始め、11月にインドネシアで開催されたアジアパラ競技大会陸上100メートル(T64クラス)で優勝。予選ではアジア新記録を叩き出した。2019年のパラ陸上の世界選手権男子100メートルと200メートルでは決勝進出。2023年アジアパラ競技大会200メートルでは22秒99のアジア新記録で優勝。SMBC日興証券に所属。

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【越智貴雄】

おち たかお●1979年、大阪府生まれ。大阪芸術大学写真学科卒。2000年からパラスポーツ取材に携わり、これまで夏・冬、11度のパラリンピックを撮影。2004年にパラスポーツニュースメディア「カンパラプレス」を設立。競技者としての生き様にフォーカスする視点で撮影・執筆を行う。写真集出版、毎日新聞の連載コラム執筆に加え、義足女性のファッションショー「切断ヴィーナスショー」や写真展「感じるパラリンピック」なども開催。ほかテレビ・ラジオへの出演歴多数。写真を軸にパラスポーツと社会を「近づける」活動を展開中。