サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は「後ろ手ディフェンスが嫌いな理由」。

■野球に日本中が熱狂した時代

 さて、小学生時代の私は、当然のように「野球少年」だった。なにしろ、私が小学校に入学した1958年、小中学校の学習指導要領にサッカーが採用された日本サッカーにとって歴史的な年は、戦後の日本スポーツ界最大のスーパースターである長嶋茂雄が立教大学から読売ジャイアンツに入団した年なのである。長嶋の巨人入団ととともに、日本中をプロ野球熱が襲った。

 ちょうどテレビが普及し始めた時代である。巨人軍の親会社である日本テレビが巨人の全ホーム試合を生中継し、他の民放やNHKはそのアウェーゲームの放映権を争って獲得、国民の半数が1週間のうち5日間、ときには6日間は、夜7時から9時まで巨人の試合を見て、長嶋のバッティングに、走る姿に、そして華麗なスローイングに熱狂していた時代だった。春と夏には甲子園の高校野球がNHKで朝から夕まで放映されていた。私は当然のように長嶋を夢見る少年となり、4年生になると同級生とチームをつくって練習や試合に熱中していたのである。

 興味深いことだが、私たちのチームの監督は小学6年生で、コーチは5年生だった。親や大人たちは自分の仕事や家事が忙しく、子どもたちの野球などにつきあっているヒマなどなかったのである。6年生の監督はいつも冷静で、的確なアドバイスをしてくれたし、5年生のコーチは熱血漢で、わずか1歳年下の「選手たち」の面倒をよく見てくれた。当時の小学生たちが、自分たちの世界ではいかに自立していたかの証拠だろう。

 非力で、打ってもなかなか外野まで飛ばない私だったが、守備には自信があり、ショート、あるいはセカンドとして楽しくプレーしていた。当然、サッカーなど、頭の片隅にもなかった。

■心をとらえた限りない自由

 私がサッカーの楽しさに気づいたのは、中学生になってからだった。

 入学した中学は、高校までの6年制で、サッカーを「校技」のようにしていた。各学期末には、先生たちがテストの採点をしている期間に組対抗のスポーツ大会が開催され、入学後最初の大会で、私は「得意」と思い込んでいた卓球と、友人からの誘いに乗ってサッカーに出ることになった。

 夏休み入り直前、体育館で卓球をやった後、広いサッカーグラウンドでサッカーの試合に出場した。1964年の東京オリンピックを目前にしたこの時期、私にもサッカーという競技のイメージはあったが、私の「サッカー経験」と言えば、数年前の「ラインサッカー」だけ。ただボールを追って走っている間に試合は終わってしまったが、青空の下で思い切り走り回ることがこのうえなく心地よかった。

 そして何より私の心をとらえたのは、「限りない自由」だった。両手を後ろに組めなどとは誰も言わない。

■サッカーの生命に反する行為

 「うまくできなくて当たり前だから、思い切り走って、ともかく自分のゴールにボールを入れさせず、相手のゴールにボールを入れることだけを目指せ。ここだと思ったら、どこへ走ってもいいぞ」

 小学生時代からサッカーをプレーしていた同級生は、試合前に、そう言ってくれた。

 昨今の「猛暑」とは違い、この年の梅雨空け直後の7月は気温は30度程度で、とても気持ちが良かった。おそらく20分ハーフぐらいの試合だっただろうが、私は終始笑顔だったに違いない。こんなに広いところを自由に走っていいなんて! 試合が終わったとき、解放感や壮快感だけが残っていた。だた、それからすぐにサッカー部にはいったわけではなく、それから2年以上たって、中学3年生の秋にようやくサッカー部の扉を叩くことになるのだが…。

 「自由であること」がサッカーの最大の魅力であり、サッカーの生命と言っても過言ではない。

 犯罪者じゃあるまいし、後ろ手を縛られるように両腕を後ろに組んでプレーするなんて、絶対にやりたくないし、見たくもないのである。

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