2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第22回・赤﨑暁(拓殖大学―九電工)前編



初の箱根駅伝では10区を疾走した赤﨑暁

 熊本の開新高校で陸上を始めた赤﨑暁は当初、大学進学を考えていなかった。パンが好きで、兄が務めている山崎製パンの工場への就職を予定していた。

「母に自分の好きな道を選べと言われていたので、そうしようと就職を考えていたんです。でも、高校の監督とうちの父の間で大学進学の話が進んでいて。いろいろ話をしていく中で、僕が折れて大学に行くことになったんです」

 広島や地元の大学などから勧誘があったが、南九州高校総体陸上の時、拓殖大学の岡田正裕監督から声を掛けられた。

「他大学からも声を掛けていただいたんですが、岡田監督は熊本のご出身というのを聞いていましたし、大学に行くなら箱根駅伝を目指していきたいと思っていました。自分はもともとスピードがある方ではないので、長距離をやりたいと思っていました。拓大は長い距離をしっかり走る練習をしていると聞いていたので、ここでなら成長できると思い、決めました」

 拓大に入り、最初に大変さを感じたのは、生活環境だった。高校時代の赤﨑は自宅通学で、寮生活は初めてだった。

「最初は洗濯を始め、自分の身の回りのことを全て自分でするのが大変で、早く地元に帰りたいなぁと思うこともありました(苦笑)。一番大変だったのは、食事の配膳と夜の掃除です。特に、食事は練習が終わった後、すぐに寮に戻って、寮母さんが作ってくれたご飯をそれぞれのテーブルに配膳し、後片付けもする。練習後は忙しくて、休む時間はあまりなかったですね」

 掃除などの仕事は1年生の役割。ただ、先輩との上下関係に関して「拓大は厳しい」というイメージがあるが、むしろ非常に仲が良く、後輩の意見を先輩がきちんと聞いてくれた。先輩後輩の間で独自のルールもなく、4年生になり、髪型もパーマが許されるなど自由な空気のある環境だった。

 チームで練習を消化していく中、赤﨑は自らの序列を上げていった。

 全日本大学駅伝で駅伝デビューを果たし、5区11位とルーキーとしてまずまずの結果を見せた。「チームでは8番以内に入っている」という手応えを得た赤﨑は、箱根駅伝でもエントリーされ、最終的に10区で起用された。

「10区は、箱根直前に言われました。最初は、5区ではないだろうということ以外どこの区間に置かれるのかまったくわからなかったんです。10区と言われた時は、そこって4年生が走るイメージが強かったので、まさか1年生の自分にくるとは思っていなかった。さすがにびっくりしました」

【レース後に「お前さえやらかさなければなぁ」と......】

 襷を受けた時は14位で10位の日体大とは7分近い差があり、シード権はほぼ絶望的だった。

「もし区間新で走れたとしてもシード圏内に届かない差だったので、ここまできたら楽しんで走ろうという気持ちでした。でも、そんな思い切ってもラスト3キロでペースが上がらず、10分近くかかってしまった。もうちょっとどうにかできなかったのか、その課題と悔しさが残った箱根でした」

 赤﨑の1年目の箱根挑戦は区間12位、チームは総合14位に終わった。

 2年生になり、赤﨑は箱根での苦い経験を活かして課題と向き合った。

「今でも課題ですが、最後にどれだけきつくても粘るというのは、競技を続けていく上で絶対に必要だと思いました。なのでポイント練習では、ラストの1本を上げるように取り組んでいました」

 2年生ながらチーム内でかなり力をつけ、箱根駅伝は往路での出走がほぼ確定し、最終的に希望だった3区を任された。

「2年の3区は一番気持ちよく走れました。海沿いで風や気温の影響を受けやすいところだったんですけど、その影響もなかった。走りの内容としては、箱根を走った4年間で一番よかったですね」

 3区10位で、チームは総合8位になり、シード権を獲得した。このままの勢いで3年ではさらに飛躍し、箱根でも結果を残したいと思っていた。ところが3年時の箱根駅伝は、まさかの大苦戦に終わった。

「1区という大事な区間だったんですけど、かなり苦しかったですね」

 1区、赤﨑は遅れ、1位の東洋大の西山和弥に1分51秒の差をつけられ、区間18位に終わった。その後チームは往路区間を8位まで盛り返し、総合9位で2年続けてシード権を獲得した。

「この時の箱根は本当に後ろのメンバーと先輩たちに助けられました。チームメイトに会うのは10区終了後の報告会でしたが、ゴールするまでに会った人には、すみませんと頭を下げていました。とにかくレースが終わるまでは、これでシードを取れなかったら自分のせいだって思って苦しかったですね。なんとか総合9位でシードが取れた時はホッとしました」

 チームの結果に安堵した表情を見せた赤﨑だが、先輩たちには「お前さえやらかさなければなぁ」と、イジられた。その声で少し気持ちが楽になったが、このレースのことはいまだに先輩たちに会うと言われるという。

 

 4年生になり、チームの体制が変わった。

 岡田監督が勇退し、山下拓郎監督が就任。練習のメニューも従来の距離を踏みつつ、スピード練習にも力を入れた。その結果、トラックで多くの選手が自己ベストを出し、赤﨑も9月の日本体育大学長距離競技会10000mで28分27秒90の自己ベストを出した。

「スピードがついたのは、実感しました」

 そして、赤﨑はキャプテンになった。走力だけではなく、チームを牽引するという責任を持って競技に取り組んだ。

「キャプテンについては、みんなからは、『赤﨑、意外としっかりやっていたよ』って言われたのですが、僕自身はみんなのことをまとめることができたのかなって思っていました。ただ、うまくやれたとしたらそれは同期の中井(槙吾)や玉沢(拓海)がサポートしてくれたからだと思います。『赤﨑は、キャプテンであり、エースだから言葉よりも走りで見せて、背中で引っ張っていってくれればいいよ』って言ってくれたので、僕も自分のやれることをやろうと割り切ることができた。それでうまく拓大をまとめることができたのかなと思います」

【好成績を収めるなか、不運に襲われる】

 最後の駅伝シーズンに突入すると、赤﨑は出雲駅伝で1区3位、全日本大学駅伝は3区3位と結果を出した。さらに箱根を走る学生が多く参加する上尾シティハーフマラソンでは日本人トップ、チームの(レメティキ・ジョセフ・)ラジニ(ケニア出身)とワンツーフィニッシュを見せ、学生トップレベルの走力を見せた。

 しかし、その直後、赤﨑を不運が襲った。

「夏合宿から本当にうまくいっていて、山下監督からも『ずっと見てきたなかで一番強い練習をしている』と言っていただいて。上尾シティハーフまでは順調だったんですけど、それが終わった直後に中足骨を痛めて10日間ほど練習を休んだんです。それからまた箱根の直前合宿に戻ったんですけど、練習を全部消化できなくて......」

 他大学からは赤﨑が1区に入ると流れが変わってくると警戒された。赤﨑も3年時の悔しさを晴らしたい気持ちがあったが、山下監督から「1区で赤﨑を使うのはもったいない。単独での走りがいいので、他の選手を1区にして、2区のラジニと3区の赤﨑で貯金を作っておきたい」と言われ、3区での起用が決まった。

 レースは1区が出遅れ、ラジニは区間2位の走りで11位まで順位を引き上げた。だが、赤﨑は故障の影響で本来の走りができず区間9位に終わり、襷を11位のまま中継した。

 

 赤﨑は、この4年時の箱根駅伝が一番印象に残っているという。

「総合13位でシード権を獲ることができなかったんですけど、4年生のレースって他のどのレースとも違うんです。最上級生で走る箱根は特別でした。自分が万全でもうちょっとしっかり走れたらシード権を獲れたんだろうなという思いがあり、悔しさという面でも忘れられない箱根になりました」

 その箱根を走った経験は、赤﨑の陸上人生にどんな影響を与えたのだろうか。

「今までいろんなレースに出てきたなかで、箱根が一番注目度が高く、応援も多かった。箱根という大きな舞台を経験したことで他のレースでは冷静でいられますし、いろんな面でプラスになりました。箱根を走ってよかったとつくづく思います」

 大学を卒業する際、山下監督には、こう激励されたという。

「最後に迷惑をかけてしまったんですけど、監督には『お前の力は、こんなもんじゃない。まだ成長する段階にいる。赤﨑ならマラソンで代表になれる』と言っていただきました。マラソンの日本代表を目指そうと思ったのは、山下監督の指導のおかけだと思っているので、なんとかそれを実現したいと思っています」

後編に続く>>MGCへ挑む赤﨑暁が「パリ五輪への気持ちは強くない」真意と倒したいライバルを語る