2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※  ※  ※  ※パリ五輪を…

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第19回・下田裕太(青山学院大学―GMO)前編



下田裕太は箱根で3年連続で8区区間賞を獲得した

 青学大時代、下田裕太は田村和希(住友電工)と並び、ダブルエースと称され、大学駅伝3冠(2016年度)、箱根駅伝4連覇に貢献した。復路8区の下田の存在は、他大学に大きなプレッシャーを与え、青学大にとっては8区が勝負の決め所になっていた。大学2年には東京マラソンを走り、結果を出した。卒業後はマラソンでの大成を期待されたが、一時は陸上から離れることを考えるほど精神的に追い込まれた。ドン底から這い上がり、マラソン界や陸上界を変えていくことをモチベーションにして、下田は秋のMGCに挑戦する――。

【もともと青学大に進学する予定ではなかった】

 下田裕太が原晋監督と初めて話をしたのは、青学大進学を決断する日だった。

「原監督曰く東海大会で下田の走りを見て勧誘したって言っていましたけど、直接話をしたのは今日決めます、みたいな日でした。ですから、特に口説きとかなかったです(笑)。本当は、他の大学に進学する予定だったんですけど、青学大は出雲で優勝したり、勢いがありましたし、強い選手もいて、環境も良かったので」

 下田が青学大に入り、練習する中で最初に感じたのは、思ったよりも距離を踏むということだった。上下関係も意外とあり、寮則も厳しい。ただ、スター選手と呼ばれていた選手が思ったほど遠い存在ではなく、「スターもやっぱり人なんだなぁ」というのを実感したという。

「当時の僕にとってのスター選手は、久保田(和真)さん、一色(恭志・NTT西日本)さんでした。陸上界のスター選手と一緒に生活したことがなかったので、初めて寮で一緒に生活したんですが、すごく特別なことをしているのではなく、地道な練習を積み重ねて強くなっているんだなと思いましたね。久保田さんは、すごくフレンドリーで近い感じな一方、神野(大地・セルソース)さんは地元が愛知で静岡の自分と近いんですけど、1年目はほとんど話をしたことがなくて、ちょっと遠い存在でした」

 ちなみに1年目の前期、寮の同部屋は村井駿だった。村井はいびきがうるさく、下田もいびきと歯軋りの問題を抱えていたので、うるさい者同士で被害者を少なくするために抱き合わされたという。

 入学時、下田の同期は12名いた。もっともタイムが良く、ドラ1で入学してきたのが中村祐紀(住友電工)で、下田は10番目のタイムだった。

「入学してきた時は、そこまで自分に才能があると思っていないので、4年で1回は箱根を走りたいなという感じだったんです。目先の結果というよりも1年目に何をすべきか。まずは、大学の練習に慣れていくことを優先していました。記録会にも出ていたんですが、5000m14分20秒ぐらいだと箱根のメンバーになれないのはわかったので、ハーフの距離に対応しようとしていました」

【苦い経験となった全日本から箱根へ】

 同期は、記録会で自己ベストを更新していく中、下田は14分30秒をコンスタントに出していた。その安定感が評価されたのか、夏の選抜合宿に1年として田村、中村、貞永隆佑とともに選ばれた。そのまま箱根駅伝の登録メンバー16名に入り、出番こそなかったが、この時、青学大は箱根駅伝で初の総合優勝を果たした。

 下田の3大駅伝デビューは、2年時の出雲駅伝だった。

 チーム内は久保田や神野、秋山雄飛ら主力が故障中で出雲を走れるスピード系の選手がいなかった。そこで2年生の田村、中村、下田が選ばれた。

「優勝するからお前、区間賞獲ってくれよ」

 先輩たちからは、そう言われた。その言葉に下田は、戸惑った。

「メンバーに入った時、自分が走るの? 箱根で優勝したメンバーの中に入って大丈夫なの? って感じでしたし、先輩には『区間賞』と言われて、なんか意味がわからない感じでした。高3の時、都大路を走ったけど、僕は35位だったんですよ。2年経過したとはいえ、そういうレベルの選手に区間賞を獲ってって、なんでそんな高い要求をされるんだろうって思っていました。正直、出雲は駅伝をちゃんと自分が走って、チームを優勝に導くという感情がまだなかったんです」

 チームを勝たせるという心構えがまだできておらず、下田は消極的な走りで4区6位に終わり、苦い駅伝デビューになった。その後、気持ちを切り替えて出場した全日本大学駅伝は5区区間賞を獲り、箱根駅伝のメンバーに順当に選ばれた。この時、下田は8区区間賞の走りで優勝に貢献するのだが、最初は8区ではなく、1区の予定だった。

「1区予定の久保田さんの調子が戻らず、12月26日あたりに監督に1区だって言われたんです。最初は、えぇって思いましたよ(苦笑)。往路は1区以外決まっていて、復路も7区まで決まっていたので、誰が1区を走るのかという時に僕が指名されたんです。言われた次の日に車で下見をして走りをイメージしたんですが、すごく緊張しました。気持ちを1区に向けて整えていたら箱根本番の3日ぐらい前に久保田さんの調子が戻って、僕は8区になったんです。言い方はよくないですけど、重要区間から誰が走っても変わらない8区に置かれて‥‥おかげで緊張もプレッシャーもなく、8区なら区間賞獲れるやろーっていう感じで走ることができました」

【4年間、箱根を無敗で卒業】

 下田は余裕を持った走りで区間賞を獲得し、優勝を確実にする役割を果たした。

 大学3年時は、往路の4区が希望だった。逃げの4区で結果を出す自信があったが、結局、3年目も8区に置かれた。

「原監督は、成功体験を大事にするんです。だから、前年でタイムが良かった8区で同じように走ってほしいということなんですけど、当時は選手層が厚くて往路に駒が足りないということはなかった。各自が一番力を発揮できる区間ということで僕は8区でした」

 この時は、7区に田村、8区に下田と青学大のダブルエースが復路に置かれた。他大学はそこにエースを置ける青学大の選手層の厚さと全体の強さに、なす術がなかった。ただ、田村は暑さによる脱水症状でいつもの走りができず、失ったタイムを下田が激走して取り返した。田村と下田は、単独でも強いがお互いを補完し合える最強2トップだったのだ。

「僕は、田村のことを認めていたし、尊敬していました。ダブルエースと言われたこともありましたが、僕の中では田村がエースで、僕はなんちゃってエースだと思ってやっていました。役割分担というか、田村は短い距離で爆発力のある走りで、コンスタントに駅伝を走れるタイプ。僕は暑さが得意で短い距離は苦手だけど、長い距離が得意で箱根では戦える。お互いに支え合うというか、助け合う感じでやっていました」

 大学4年目も8区区間賞で優勝に貢献し、箱根駅伝4連覇の偉業を達成した。

 3度走った箱根で下田が一番印象に残っているのは、4年時の箱根だという。そのシーズン、下田はかなり苦しんだ。大学3年の終わりに膝を痛めて、2カ月ほど離脱し、復帰するとフォームがしっくり来ず、うまく走れなくなった。さらにアディダスとミムラボのコラボが終わり、アディダスを履くのか、ミムラボのシューズを履くのか、定まらなかった。フォームが整わず、シューズの影響で足にマメが出来てしまい、走り全体が噛み合わなかった。大学2年目までの思い描いていた成長曲線と現実のギャップに悩み、メンタル的にも厳しい時期がつづいた。全日本大学駅伝は5区4位に終わり、11月末の学連記録会10000mは29分14秒60で22位とはずして、「これでもう箱根を走ることはない」と落ち込んだ。だが、箱根本番10日前の5キロ2本という重要な練習でいい走りができて、流れが変わった。

「常にギリギリのところでやっていたのが4年目でした。先輩たちが繋いできたものを、絶対に繋げていかないといけないという気持ちもありましたけど、それ以上にここまで勝ってきて自分の代では勝てないで卒業するのは本当にいやだった。自分も結果を出して、チームのみんなでよかったね、で終わりたかった。結果的にある程度走れて、チームの勝利にも貢献できたので、終わりよければだったんですけど、大学で一番、苦しかったシーズンでした」

 この時、青学大はひとつのピークを迎え、下田は4年間、箱根を無敗で卒業した。

後編に続く>>「もう走れません。今年で陸上やめます」...ドン底状態からMGC出場権を勝ち取るまでに奮い立たせた恩師の言葉