源 純夏(みなもと すみか)、1979年5月2日生まれ、徳島市出身。7歳から水泳を始め、12歳で50m自由形学童新記録を樹立し、14歳の時に同種目で日本選手権制覇。17歳で1996年のアトランタオリンピック出場。2000年のシドニーオリンピ…

源 純夏(みなもと すみか)、1979年5月2日生まれ、徳島市出身。7歳から水泳を始め、12歳で50m自由形学童新記録を樹立し、14歳の時に同種目で日本選手権制覇。17歳で1996年のアトランタオリンピック出場。2000年のシドニーオリンピック女子4×100mメドレーリレーで銅メダルを獲得。その後、テレビ朝日に入社するが、2002年に退社し徳島県に帰郷。2012年に徳島ライフセービングクラブを設立。エフエムびざんやミュージックバードでラジオ番組「純夏のwaterside NOW!」を放送。(取材・文/大楽聡詞 写真/本人提供)

小さい頃は車に乗っていても気づかれない、もの静かな子供

昔は赤ちゃんの性別を、妊婦のお腹の形で予想していた。とんがっていたら男の子。源の母は、お腹がとんがっていた。

生まれてきたのは体重4,020グラムのビッグベイビー。髪の毛もふさふさで、父が「男の子だ!」と叫んだら、看護師さんから「よく見てください、女の子です」と告げられた。

源は両親と3つ歳の離れた姉の4人家族。自然の景色を眺めるのが好きだった。家族でドライブ中、「純夏、乗ってる?」と母親に声をかけられるほど大人しい子供だった。

水泳を始めたのは小学1年。スポーツ好きの両親が「純夏に基礎体力作りをさせたい」と考え始めさせた。

「徳島は海に囲まれ、川も多い地域。私の母も子供の頃、川の近くで育ちました。両親は『泳げる技術を身につけることで、自分の命を守ることになる』と考えたみたいです。それである日突然、近くのスイミングスクールに連れて行かれ、週1、2回通い始めました」

源が通うスイミングスクールは設立されたばかり。コーチに「選手を育成したい」という想いがあり、源に白羽の矢が立った。

「私、小さい頃からものすごく不器用な人間なんですよ。平泳ぎのキックができないのに、バタ足だけは速かった。そのことをコーチが見つけてくれたんです。選手育成コースはスタートしたばかりで、同じレベルの子たちが私以外4、5人いました。4月ぐらいに始めて、秋に4泳法(自由形、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎの4種類のこと)が、ある程度泳げるようになりました。ただ平泳ぎのキックができたのはメンバーの中で最後でしたね(苦笑)」

小学3年になると源は四国大会の学年別で優勝するようになる。コーチの方針は「早く泳ぐより、まず4種目を綺麗に泳ぐこと」だった。様々な種目に出場し、源の種目は「短距離自由形」に落ち着いた。

「詳しく覚えてないけど、中学に入学した時の身長は163㎝。体格が大きいのは水泳をやる上で武器になります。ただ現在168㎝、中学から伸びる速度が落ちました(笑)。

源さんはバルセロナオリンピックの岩崎恭子さんを観て、オリンピック出場を目指した

岩崎恭子さんがバルセロナで金メダル獲得。私もできるかもしれない

源の一つ先輩に1992年バルセロナオリンピック200m平泳ぎ金メダリストの岩崎恭子さんがいる。彼女が中学2年で金メダルを獲得したその姿を、源はテレビで観ていた。

「1988年ソウルオリンピックで鈴木大地さんを見て、オリンピックの存在を知りました。その4年後、中1の時にバルセロナの恭子ちゃんを見て、『1つ上の女の子が、オリンピックで金メダル取れるんだったら、自分もできるかもしれない』という夢を持ったんです」

当時の日本の水泳は若年層が強い競技。これは源曰く「日本の体質」だそうだ。

「水泳はプールがないとできないスポーツです。高校や大学を卒業すると練習する場所が限られてきます。社会人になっても選手を続けるには、環境が大切。要は練習できるプールがあるかどうか。それを確保するのが難しかった。ですから30年ほど前は、水泳選手のピークが20歳前後と言われていました。そこまでに泳いでおかないと、泳ぐ場所がなくなる。それに水泳はスイミングスクールが主体です。スイミングスクールは民間なので『早く成績を出してほしい』。そういう状況もあり、私たちの時代は中学・高校で日本代表になるのが、当たり前でした。現在、心も体も成熟した20代の選手たちが、たくさんいてくれるのは、すごくいい状況だと思います」

現在は高校生が日本代表に入ると「高校生スイマー」とメディアが騒ぐが、2000年前後は10代の水泳選手が自然だった。北島康介さんもオリンピック初出場は高校3年生、2000年のシドニー。

2004年アテネオリンピック、男子100m平泳ぎ・200m平泳ぎで金メダルを獲得。試合後のインタビューで「チョー気持ちいい(超気持ちいい)」と発言し、この年の新語・流行語大賞に選ばれた北島康介さん。2008年北京オリンピックでも同種目で金メダル。オリンピックで2大会連続2種目制覇を成し遂げたのは日本人史上初であり、平泳ぎで2大会連続2種目制覇を成し遂げたのは世界初だ。

「私はシドニーが2回目のオリンピック出場。その時、康介は高校3年で初めてのオリンピックでした。当時はそれが普通。ただ2000年あたりに水泳界の変革がありました。私たちの中学、高校、大学の時期にいろんなことが起こり、それが礎になっています。見え方で言うと2001年世界水泳の福岡大会から変わりましたね。水泳はキャップとゴーグルをしているので表情が分かりにくい。テレビ的に『こんなに面白くない競技はない』(笑)。でもそれを見ている人にどうやって共感してもらえるか演出を考えた時、デジタル処理が出始めた。具体的には世界記録ラインが画面上に出ることで、『あと少しで記録達成か?』というワクワク感が視聴者に伝わり一気に視聴率が上がりました。スポーツにとって『分かりやすい』は本当に大事なことです」

水泳選手としての葛藤

小学1年から育成選手として水泳に向き合ってきた源。友達が他のスポーツや遊びをしてもスイミングスクールに通い続けた。水泳を辞めたいと思ったことはなかったのだろうか?

「私の場合、まず1つ言えるのは、小学校1年で水泳を始めてから、私が水泳を続けるために周りが一生懸命レールを引いてくれたんですよ。例えば、朝5時からの早朝練習に行くのに、親に起こしてもらって送り迎え。その間にコーチがプールを温めてくれる。私はレールをただただ走るだけだったんです。ただ、これが楽しかったわけではない。そのレールから降りる勇気というか、降りる知恵がなかった。『降りる選択肢』がなかったんです。でも面白い話で、タイムが良かったりすると周りが褒めてくれた。これが一番の栄養でしたね(笑)」

源は「自分のために頑張るのは苦しいけど、誰かのためには頑張れるタイプ」だと自分を分析する。それ以外にも源の両親は「大会に優勝したら好きなご飯を食べに行こう」など、源がレールの上を走り続けるようにサポートした。

源さんは1996年アトランタオリンピックに出場。自由形50m・自由形100m・400mフリーリレーの3種目にエントリー

1996年アテネオリンピック出場、スランプ

スランプ(slump)とは「はまり込む」「落ちる」という意味で、パフォーマンスのレベルが下がり、本来の実力を発揮できず、スポーツの記録や成績・仕事の成果が上がらず気分が落ち込んでいる状態のこと。ポジティブな源にも、その時期が訪れていた。

「小学校6年で日本記録を出して、中学1年で、今でいうアンダー日本代表みたいなのがあり海外遠征に行きました。中学2年で初めて日本選手権で優勝して、そこから代表に入るようになりました。中学 3年、広島で開催されたアジア競技大会、それからローマの世界選手権に出場。ここまでは良かった。高校2年でアトランタオリンピックに出場していますが、高校3年間が超絶スランプ時代なんです。スランプでベストタイムが出ないのに日本選手権に優勝するんですけど(苦笑)」

源は短距離自由形の選手。この種目は世界で選手層がもっとも厚い。世界と戦うことを考え、他の種目に移る選手も少なくない。だが源はあえて短距離自由形にこだわった。

「高校生活が充実してて、それで練習がおろそかになりました。あと高校生になって身体が変化した。小学・中学と継続してきた練習に、高校では対応できなくなりました。今みたいな情報社会じゃないから、どんな練習をすればいいのか分からなかった。2位以下の選手のタイムが伸びなかったので、私は日本のトップで3年間やれました。その中で、『もう水泳やめる、やめたいな…』と思うタイミングが何度も訪れた。辛い3年間でしたね」

源は高校2年の時、1996年アトランタオリンピックに出場。自由形50m・自由形100m・400mフリーリレーの3種目にエントリー、自由形50m で12位だった。

「一緒に何か月も練習していた仲間は、『ベストタイムが出た』『メダルにあと1歩だった』というのに、一緒の生活をして、同じだけ練習して、同じ食事もしてたのに、なんで自分だけって…『私はできない人間なんだ、ダメな人間なんだ、頑張っても叶わない夢がある。頑張るだけ無駄じゃん』とネガティブな考えにとらわれてしまった」

アトランタオリンピックが終わり、他の選手が1か月ほど休んで練習に復帰する中、心の整理がつかない源は2か月、3か月と復帰を先延ばしに。コーチに促されプールに行くが、体が拒否してゴーグルの中に涙が溜まっていく。

高校2年の冬、進学も考える時期になり、源は練習を開始する。

「今後どうするかを考えていかなきゃいけない。なんとなく惰性で練習も始めました。その中で、県外の招待試合に出ることになって、あるコーチにふと言われたのが、『先のこと考えすぎてないか』って。私は常にオリンピックを目標にしてきた。アトランタが終わって無意識に『また4年間やらなきゃいけないの?』と、4年先のことしか考えてない自分がいた。そしてそのコーチに次に言われたのが、『4年後、次のオリンピックがどうなっているかは誰にもわからない。今できることを一日一日積み重ねていく。あなたができることをやりなさいよ』って言われて、すごく気持ちが楽になりました。一生懸命、私は背伸びしようとしていた。それで『背伸びじゃなくて、今自分ができること、手が届くところからやりましょうよ』と言われることによって、『自分がやんなきゃいけないことはなんなんだ』って気がついた。それで前向きに進学を考えました。アトランタオリンピックで大失敗をした。同じ環境だと、同じ失敗をしかねない。だったら環境を変えることを私は選択しました」

あるコーチの言葉をキッカケに前向きな気持ちになった源。オリンピック代表選手になれば、常人では計り知れないほどの期待やプレッシャーを知らず知らずのうちに背負うことになる。

「プレッシャーの正体って、周りに言われること。例えば『頑張ってね』とか、『期待してるわよ』とか言われる言葉ではなく、それを受けた自分が、自分にかける期待なんです。外からの声じゃなくて、それを聞いた自分がどう考えるか。実力を100パーセント以上発揮するためには、その期待の声が必要です。だからプレッシャーは、ある意味必要なもの。誰にも期待されず、興味も持たれない中で勝っても面白くないと思います」

アトランタオリンピック出場後、スランプに陥った源は水泳から離れそうになるが、あるコーチの言葉により息を吹き返す。そして次のシドニーオリンピックでメダルを獲得するため、自ら選択し動き出す。中編では大学進学から、シドニーオリンピック出場直前のケガ、そして2度目のオリンピックでの舞台裏を語ってもらう。(中編へ続く)