市立川越の室井監督は千葉・銚子商出身で初の埼玉県教員に 夏の甲子園に出場する埼玉代表は、私学による寡占状態が止まらない。…

市立川越の室井監督は千葉・銚子商出身で初の埼玉県教員に

 夏の甲子園に出場する埼玉代表は、私学による寡占状態が止まらない。出場2枠の記念大会を除くと、1995年の越谷西を最後に、公立校の出場はなし。かつて埼玉の高校野球をリードした公立の復権はあるのか。今春の県大会で4強入りした市立川越高校にスポットを当てた。

 黒潮打線に怪物・江川卓との対決、木樽正明、篠塚利夫、宇野勝……。野球好きなら、すぐに銚子商業を思い浮かべる。1965年夏の甲子園に千葉県勢として初めて決勝に進んで準優勝。74年夏には篠塚や本格派右腕・土屋正勝を擁して頂点に立った。翌年には習志野が67年に続く2度目の栄冠に輝いたが、千葉の高校野球を全国区に押し上げるきっかけをつくった古豪が銚子商であり、春夏通算20度の甲子園出場は千葉県勢最多を誇る。

 そんな名門校の卒業生が2019年春、埼玉の市立川越の商業科教諭として赴任してきた。銚子商出身で埼玉県の教員になるのは、43歳の室井宏冶監督が初。そもそも銚子商の卒業生に教員志望はまずいなかった。

「そろそろ銚商OBの教員が欲しい。大学で商業の教職を取ったらどうだ、と2人の大先輩に打診され、首都大学連盟の城西大で野球をやりながら教員免許を取得しました」

 銚子商が74年に優勝した当時のコーチで、室井の監督だった高野豊人。準優勝した65年のエースで、プロ野球・東京オリオンズ(現ロッテ)では70年にリーグ優勝とMVP、71年に最多勝(24勝)を挙げ、引退後はロッテの2軍監督などを務めた木樽が、その進言者だ。

高校3年間の思い出は6月の「地獄の強化合宿」

 室井の実家は銚子商の真下にあり、「銚子の人間は物心つくと野球を始め、幼い頃から銚子商に入るものと思いながら育った」と柔和な表情で語る。「小・中学校の指導者など周りは銚子商OBばかりだったので、“お前は銚子商に行くんだ”という育てられ方をし、他に選択肢などありませんでした」と幼少時を述懐。銚子四中(現・銚子中)の4番で捕手は、95年4月、路線通り銚子商に入学する。

 銚子商で木樽と同期の強打者・阿天坊俊明が、室井の父親と幼なじみだったことも少なからず影響した。市内には石毛宏典の母校、市立銚子や市立銚子西といった甲子園出場歴のある強豪が身近にあり、切磋琢磨するには最高の環境だった。

 95年春の甲子園は沢井良輔(のちロッテ)の活躍で準優勝し、夏の県予選決勝は拓大紅陵に競り勝って11度目の制覇。室井は登録メンバーから漏れたが、チームに帯同させてもらい練習の手伝いや出発式、組み合わせ抽選会などを経験する。2年夏は初戦で、レギュラーになった3年夏は4回戦で敗れ、夢舞台には戻れなかった。

 高校3年間の思い出は、6月いっぱい行われた地獄の強化合宿に尽きる。日曜から水曜まで学校に泊まり込み、早朝4時から400メートル、200メートル、100メートルをそれぞれ10本走り終わると、体重100キロ超の指導者が乗った自転車を上り坂で延々と押した。放課後は大勢のOBによる“特守”だ。午後8時までノックは続いた。

「予選が始まろうが、試合前日だろうが、ずっと練習と走り込みです。目標は甲子園出場ではなく、甲子園で勝つことだと教えられました」

「市立川越も銚子商と同じ伝統校」プライドを持って行動を

 城西大ではレギュラーにこそ定着できなかったが、4年生で主将を任され第32回明治神宮野球大会で準優勝。高校、大学を通じ「三流選手だった分、考えながら野球をやったし、練習にも高い意識で取り組んだ。大学ではいい仲間に恵まれ、指導陣に指示される前に選手同士で行動しました」と述べ、これを市立川越での教えにも生かしているそうだ。

 高校時代の過酷な指導を、多少なりとも今に反映しているのか。「いやいや、あの手法をそのまま導入したら大変ですよ」と笑い、「市立川越も銚子商と同じ伝統校ですから、私が教えられた伝統校の一員としてのメンタリティや立ち居振る舞いなどは伝えています。大勢の人に応援していただき、注目されているのだからプライドを持って行動しないといけない。これが一番大切なことですから」と、古豪ならではの心得を根気よく諭している。(文中敬称略)(河野正 / Tadashi Kawano)