連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第32回 大学生活を締めくくるに相応しい舞台が巡ってきた。ひとつ勝てば4シ…

連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第32回

 大学生活を締めくくるに相応しい舞台が巡ってきた。ひとつ勝てば4シーズンぶりに早稲田の優勝が決まるという、秋の早慶戦。しかしながら早稲田は2季連続で慶應に勝ち点を落とし、優勝を阻まれていた。2010年10月30日、大学通算31勝目をかけて、斎藤佑樹が1回戦のマウンドへ上がる。



慶應との優勝決定戦に勝利し、優勝パレードに参加する斎藤佑樹(写真中央)

【ひとつ勝てば優勝の早慶戦】

 早慶戦というのはイベントですからね。いい意味でのお祭り騒ぎをするというか、真剣勝負を両校の学生が応援することで大学が一体となる。そういうエンターテインメントだと思います。だから早慶戦で投げるのは楽しいんですよ。大学1年の頃は、あまり関心がありませんでしたが、上級生になってからは伝統の大切さ、重さを感じるようになりました。

 4年秋の早慶戦は、リーグ戦で優勝できなければ"WASEDA"のユニフォームを着る、最後の機会になります。初めて早稲田のユニフォームに袖を通した時のことは今でも覚えています。高校に入学する時、鏡で自分の姿を見て感動しましたからね。やっぱり憧れ続けた早稲田でしたし、早実のユニフォームを着たときはゾクゾクしました。

 正確に言えば、早実と早大のユニフォームは帽子の形と襟の有無が違うんですが、それでも7年間、同じ早稲田のユニフォームを着てマウンドに立ち続けたことは僕にとっては誇らしいことでした。

 僕はもともと大学へ行ってからプロへと考えていましたし、中学の時に神宮で早慶戦を観たことが早稲田に憧れるきっかけでしたから、最後の4年の秋、主将として、しかも1回戦を任されるエースとして早慶戦を戦えることは特別なことだと思っていました。

 しかしながら、その年の秋のリーグ戦では早慶戦で優勝を決めることができませんでした。ひとつ勝てば早稲田の優勝が決まったのに、慶應に連敗した。3季続けて早慶戦で勝ち点を落としてしまったんです。

 僕は1回戦に先発して、初回、先頭バッターの渕上(仁)くんにストレートを投げて(3球目)、いきなりホームランを打たれてしまいました。そのことだけは覚えているんですが、どうやって負けたのか、思い出せません(6回に連打で1点を追加された斎藤は7回2失点の100球で降板、打線は慶大の投手・竹内大助、福谷浩司から得点を奪えず、0−2で敗れた)。翌日の2回戦も早稲田は勝てず、慶應と勝ち点、勝率とも並んで、優勝決定戦が行なわれることになりました。

【早慶による50年ぶりの優勝決定戦】

 早慶による優勝決定戦は50年ぶりということでした。僕としては慶應に負け続けていましたから、『いやいや、さすがにもう勝たないとダメだ、何度チャンスもらってると思ってるのに』という感覚でした。早慶戦が終わって(11月1日)、優勝決定戦(11月3日)までには一日の間がありました。その一日で僕、じつはフォームを変えているんです。

 そのことを覚えているのは、優勝決定戦の直後、当時はスポーツキャスターだった栗山(英樹)さんにインタビューを受けたからです。その時、栗山さんにフォームの話をしたのを、なぜかものすごくハッキリと覚えているんですよね。

 その時の僕はドラフトでファイターズに指名された直後で、当時の監督は梨田(昌孝)さんでした。もちろん栗山さんがのちにファイターズの監督になるなんて想像もしていません。でも栗山さんに『優勝決定戦でフォームを変えましたよね』と訊かれて「この人、すげぇ」と思いました。

 優勝決定戦までの一日の間に、左足を上げてから一拍置くようにしてみようと思いつきました。その効果がどこにあったのか、じつは今でもよくわからないのですが(苦笑)、でも二段モーションに近いイメージで、足を上げてから一拍の間(ま)をとってみたんです。もしかしたら体重移動の時、自分の重心を意識しながら移動させにいっていたのを、一拍置くことで我慢させて、そこから自然に重心移動が起こるように仕向けたかったのかもしれません。

 ちょっと難しい話ですが、身体の大きいところを動かそうと意識すると、どうしても小さいところに意識が向いて、身体の端が余計な動きをしちゃうんです。そうすると重心はまだ残った状態でどこかを崩して自分の動作をしようとしてしまうから、たとえば腕だけで投げようとしてしまう。つまり、身体が辻褄を合わせようとして、うまく力が伝わらなくなるんです。

 でも、一拍置くことで重心移動を待つことができれば、身体の小さな部分の余計な動きはなく重心移動だけで投げられますから、腕だけじゃなく、自分の身体の大きなところを使って投げられることになります。その結果、ボールにちゃんと力が伝わる......そんなことを意識していたような気がします。優勝決定戦の前日練習でキャッチボールをしていて、あっ、これだ、と思いついたんですよね。

【持っているのは仲間】

 11月3日は秋晴れでした。1回表、早稲田はヒット、ヒットで得点を挙げて(3度のエンドランを絡めた6安打で竹内から初回、3点を奪った)、気持ちとしてはラクに投げられました。目の前のバッターをひとりずつと思っていたら、ノーヒットピッチングが続いていて、5回を投げきった時に、まだヒットを打たれてないよなと、何となく意識したのを覚えています。

 そのまま7回までノーヒットピッチングを続けましたが、8回のワンアウトをとったところで初ヒットを打たれてしまいました。そこからあれよあれよと5点を取られて、7−5と2点差まで詰め寄られます。

 それでも優勝決定戦ですから、僕のピッチング内容も点差も関係ありません(9回に3点をとって10−5と突き放した)。9回は大石(達也)が投げて、僕はベンチから見ていましたが、5点差ありましたし、もう大丈夫だと思っていました。

 その時に頭を巡っていたのは、春に優勝できなくて、最後の最後までこうして苦しんで戦ってきたことへの主将としての責任でした。でも、やっと勝てる、やっと優勝できるとなったとき、4年間、一緒に戦ってきた4年生や、ついてきてくれた後輩たちの顔を眺めていたら、ふと"仲間"という言葉が浮かんできたんです。だからインタビューでああいう言葉が出てきたんだと思います。もちろん覚えてますよ、『僕が持っているのは仲間です』って言いました(笑)。

(※優勝インタビューで斎藤は「あの、最後に、ひとつだけ言わせて下さい。本当に、いろんな人からも『斎藤は何か持ってる』と言われ続けてきました。ただそれは、今日、その、何を持ってるのか確信しました......それは、仲間です。チャンスを回してくれた仲間、応援してくれた仲間、慶應大学というライバルがいて、ここまで成長できたと思っています」と答えている。)

 終わってみれば大学での4年間で31勝しましたが、もっと勝てたと思う試合はいっぱいありましたし、2位が3度もあったんですから優勝の回数だってもっと増やせたはずです。

【文武両道の4年間だった】

 その後の明治神宮大会では、大学の部の決勝で東海大と戦いました。福井(優也)が先発して、大石がつないで、2−1と1点リードした最終回、僕が投げることになります。

 4年生になってからリリーフで投げるのは初めてでした。あれは『最後は斎藤に』という應武(篤良)監督の粋な計らいだったと思っています。福井と大石、東海大の菅野(智之)君が投げた後のマウンドはデコボコで、かなり丁寧に均したんですけど、それでも練習のときにスパイクが引っかかってつんのめってしまいました。バランスを崩して一塁側に倒れこんでしまって、神宮のお客さんが和らいだのを覚えています。

 大学生活の集大成ともいえる9回表のピッチング(12球)は本当に気持ちよかった......神宮大会で早稲田が優勝したことがないということは聞かされていましたし、主将として早稲田を初優勝に導くことができたのはすごくうれしかったですね。

 大学での4年間は野球だけの生活ではなかった。授業も大切だし、野球部では雑用もする。もし高校からプロへ行っていたら気づけなかったことがたくさんあったような気がします。それを大学で気づかせてもらった。野球もして勉強もして......野球がうまくて勉強もできることが文武両道じゃないんです。野球をやって、勉強にもちゃんと取り組む。できるできないじゃなくて、両方に真剣に取り組むことが文武両道。そういう意味で、僕は文武両道の大学4年間を過ごせたと思っています。

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 早実で夏の甲子園の頂点に立ち、早稲田大では50年ぶりの早慶による優勝決定戦を制して、いずれも有終の美を飾った。そして、"持ってる男"斎藤佑樹が、ついにプロの世界へ飛び込む。北海道日本ハムファイターズ、背番号は18──斎藤のプロ1年目、激動の2011年が始まろうとしていた。

(次回へ続く)