シリーズ・部活の現場に行ってみた!(2)名門・下北沢成徳の自由な指導 【前編】 東京の下北沢成徳高校は、全日本女子バレーボールで史上初となる4大会の五輪に出場し、ロンドン五輪で銅メダルを獲得した木村沙織をはじめ、同じくロンドン五輪銅メダ…

シリーズ・部活の現場に行ってみた!(2)
名門・下北沢成徳の自由な指導 【前編】

 東京の下北沢成徳高校は、全日本女子バレーボールで史上初となる4大会の五輪に出場し、ロンドン五輪で銅メダルを獲得した木村沙織をはじめ、同じくロンドン五輪銅メダリストの荒木絵里香、2000年代に女子バレーブームをけん引した「メグ・カナ」の大山加奈など、全日本の主力選手を数多く輩出してきた名門校だ。言わずもがな、その強さは現在も健在で、今年1月の春高バレーでは代表にも選出されたエース・黒後愛を擁して連覇を成し遂げている。


黒後愛の活躍もあり、春高バレーを連覇した下北沢成徳 photo by Sakamoto Kiyoshi

 一般的に女子バレーは、監督による激しい叱咤激励やワンマンレシーブといった猛練習のイメージが強いが、下北沢成徳を率いる小川良樹監督は「自由な指導」をすることで知られている。木村沙織も「自分たちの自主性に任されていて、私にとても合っていました」と語る、従来の女子バレーからすれば反主流派をいく小川監督の指導法はどのように確立されたのだろうか。

「実はね、私も以前は叱咤激励型でした。女子バレーといえば、1964年の東京五輪で金メダルを取った大松(博文)監督に代表されるような『俺についてこい』という時代でしたから、『厳しくなきゃ駄目だ』と思い込んでいました。父兄もそれを求めていたところもありましたし、ワンマンレシーブもどんどんやりましたよ」


成徳を常勝軍団に押し上げた小川監督

 photo by Nakanishi Mikari 木村や大山らから、幾度となく「大好きな小川先生の、自由な指導」を聞かされてきた身としては、かなり意外な答えだった。

「私はもともと、自分でもバレーボールをしていたのですが、次第にプレーすることよりも指導することに興味を持つようになりました。中学時代から、『どんな指導が行なわれているんだろう』とワクワクしながら数多くの試合を観戦しに行ったものです。今で言うところの『観戦オタク』ですね」

 早稲田大学に進学後はバレー部に入らず、OBに紹介された下北沢成徳(当時は成徳学園)のコーチを引き受けることになった。その頃の成徳はまだ強豪校ではなく、部員はバレー経験者と未経験者が半々くらい。そこに、「誰よりも厳しく、つらい練習に耐えること。その先に勝利がある」というポリシーを持った小川がコーチとなったことで、成徳は都内でベスト32に届くくらいの成績を残すようになった。

 だが一方で、退部する選手も後を絶たなかった。3年生になった選手は、厳しく、つらい練習から逃れて「早く自由になりたい」と、とにかく引退を待ち焦がれていたという。

「『話があります』と言われると、『あ、退部だな』と。それくらい多かったですね」

 そんな小川監督の、指導に対しての考えが変わったのには2つのきっかけがあった。

コーチを経て正式に監督に就任した当初、成徳はスカウトを行なっていなかった。通常の試験を受けて入学し、入部を希望した生徒のみで構成されていたが、やがて他の強豪校のように有望選手に声をかけて入学・入部を働きかけるようになる。しかし程なくして、ある強豪中学の指導者に「そんな厳しい練習をさせる監督のところには、うちの生徒はやらない」と言われたという。

「正直、反発もありましたね。だって、その中学の先生も相当厳しい監督だったんですよ。なのに、そこまで言われるということは、私の指導はよっぽどなのかなと思いまして。少し頭を冷やして、指導方針を見直すことにしました」

 また、スカウトを始めたことで気づいた「他校との差」も指導の変化に影響した。早くからスカウトを行なっていた八王子実践や共栄学園など、都内の強豪校はみなスパルタだった。後発の成徳がいくら有望選手の獲得に力を入れても、どうしても一歩及ばない。

「選手のレベルは向こうが上回っているのに、同じ指導法では永遠に追いつけない」と感じた小川監督は、大きな発想の転換を行なった。怒る回数をぐっと減らし、選手同士で課題を話し合う意識を徹底させることで、選手をモチベートする方向へ変えていったのだ。それまでのワンマン系の練習を一気に減らすことはなかったが、最良の指導法を模索しながら前進を続け、1991年にインターハイの出場権を勝ち取るまでになった。

 その3年後には春高への出場も果たし、ベスト4以上に進出することが増えたものの、なかなか頂点には届かない。他校との合同合宿で「小川先生は甘いから、お前たちは優勝できないんだ」と揶揄(やゆ)されることもあった。しかし、その言葉はかえって選手たちの気持ちに火をつけた。大山が主将として出場した2002年に念願の春高初制覇。インターハイ、国体と合わせて三冠を成し遂げた。

今でも春高の中継では、成徳の選手たちが互いを厳しく叱咤しあう映像がよく流れるが、小川監督は何も言わずに選手たちを見守る。その異様とも思える光景が、自由で強い成徳を作り上げたのだ。

(後編につづく)