フィリップ・トルシエの哲学連載 第2回日本代表チームの構築について語る(1)1998年フランスW杯のあと、日本代表の指揮…

フィリップ・トルシエの哲学
連載 第2回
日本代表チームの構築について語る(1)



1998年フランスW杯のあと、日本代表の指揮官に就任したフィリップ・トルシエ監督。左は日本サッカー協会・岡野俊一郎会長(当時)、右はアシスタントコーチのサミア氏

 フィリップ・トルシエが日本代表監督に内定したのは、1998年8月のことだった。それ以前、フランスW杯期間中の7月に日本サッカー協会はトルシエにコンタクトしている。トルシエが語る。

「当時の私はフランスW杯に出場した南アフリカの監督を務めており、日本は同W杯のあとを任せる代表監督を探していた。そして、フランスがこの大会で優勝して世界チャンピオンになった。日本協会にとって、フランス人監督は理想的な候補だった。最初にコンタクトしてきたのは、加藤久さんだった」

 岡田武史監督のもと初出場を果たしたフランスW杯で、日本は3戦全敗でグループリーグ敗退を喫した。4年後の2002年には、史上初の共同開催となる日韓W杯が控えている。これまでのサッカーの歴史のなかで、W杯開催国が本大会でグループリーグを突破しなかった例はない(その後、このジンクスは2010年大会の地元・南アフリカの敗退によって途絶える)。

 ジョホールバルでのアジア最終予選プレーオフでイランを下し、初出場が自国開催という事態こそ避けられたものの、グループリーグの突破は開催国としてのノルマにも等しい。W杯の檜舞台にようやく立った日本にとって、突きつけられた目標はあまりに高かった。

 そこで、日本がアドバイスを求めたのはフランス協会だった。1964年東京五輪に向けての強化で、1954年W杯を制覇した西ドイツにコーチ派遣を要請したように、1998年W杯を制することになるフランスに、指導者の推薦を求めたのだった。

 フランス協会が作成したリストには、レイモン・ドメネク(当時フランス五輪代表監督、のちのフランス代表監督)や、ギィ・ステファン(現フランス代表コーチ)らと並び、フィリップ・トルシエの名前も記されていた。

 トルシエが当時を回想する。

「フレデリック・ドブラージュ(=代理人。現役時代はGK。国立育成センターのINFヴィシーではエリック・モンバエルツと同期)とともに、加藤さんと会った。(フランスW杯の)決勝の日だったと記憶している。場所はポルトマイヨのグランド・トゥールという高級ホテルだ。そこから随分と時間が経ってから、『日本に行って協会の幹部と会ってほしい』と伝えられた」

 来日した彼は、当時協会の技術委員長だった大仁邦彌と初めて面会した。

「日本は事前に、私の情報を集めていた。アーセン・ベンゲルを通じてだが、フランス協会の幹部も絡んでいた。大きな体躯で眼鏡をかけていて、すでに故人になっているが名前は忘れた(ジャン・ベルバック副会長のこと)。

 大仁さんと東京で食事をした時、その人物の言葉を聞いて『確信した』と言っていた。アーセンも話したのだろうが、その協会の人物が私のことをいろいろ話して推薦してくれたのだろうと思う」

 次期W杯の開催国である日本で代表の指揮を執るのは、トルシエにとって魅力的なチャレンジだった。だが、「白い呪術師」の異名をとり、ナイジェリアやコートジボワール、モロッコ、ブルキナファソ、南アフリカなどアフリカでは勇名を馳せたトルシエも、アフリカ以外では未知の存在であり、アジアとの接点はまったくなかった。

「私が日本を知ったのはフランスW杯を通してだった」と彼は言う。

「それ以前は、日本に興味があるわけではなく、日本のサッカーも知らなかった。フランスW杯を通して、日本の情報を得た。試合もすべて見た。

 そこから得た印象は、戦う意志にあふれたフィジカルの強いチームであり、規律も申し分ない。アグレッシブかつコレクティブ、サッカーに必要な要素をひととおり備えているというのが、私が抱いた日本の印象だった」

 とはいえ、フランス大会ではアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに敗れて3連敗。パフォーマンスも決して満足のいくものではなかったが、トルシエにとっては、どちらもさして重要ではなかった。

「重要なのは、ポテンシャルがどれだけあるかであり、どんな選手がいるか、だった。確かに結果はよくなかったが、内容を鑑みれば、日本は容易に進歩できると確信した。

 ベースとなる選手たちは決して悪くはない。何かを構築できると思うことができた。これからチームを作り上げていくうえで、多くのポジティブな要素を私はこのチームから見出すことができた」

 それではトルシエは、日本のどんなところを具体的に評価したのか。

「彼らは90分の間、集中して強い気持ちでアグレッシブに戦うことができる。チームへの献身には疑う余地がない。すべての選手が持てる力のすべてを捧げている。その集中力の高さで、チームのために一丸となって戦っている。コレクティブな規律は最初に見た時から顕著で、日本は戦ったら厄介な相手だと思った」

 同時に、いくつかの欠点も目についた。

「最大の弱点は、プレーが直線的で予測しやすいことだった。深みがなく、容易に先を読むことができる。マリーシアが足りず、相手の裏をかけないからだ。

 先を読んで何かをするわけではない。フィジカルとスピードを頼りに、相手よりも速く、長い時間走ることばかりを心がけている。スマートなボール回しができない、ナイーブで直截(ちょくせつ)的なサッカーだった。それが、攻撃面での日本の印象だ」

 一方で、守備に関してはどうだったのか。

「チームは連帯感にあふれ、アグレッシブだった。だが同時に、守備でもマリーシアと経験の欠如を感じた。日本はさまざま面においてナイーブで、言葉を換えれば、それはヨーロッパにおける経験の欠如だ。

 だから、選手がナイーブに映る。日本に来て顕著に感じたのは、そのことであり、その方面で集中的に強化をした。選手たちがより抜け目なくなることを求めた」

 実際にトルシエは、のちに選手たちにコンタクトプレーで手や腕をうまく活用することや、激しいボディコンタクトを求め、練習では自ら選手を相手に実践して見せた。その激しさと厳しさ、顔を真っ赤に染めて選手を怒鳴り、檄を飛ばす姿から、たちまち「赤鬼」というニックネームが与えられた。

 しかしながら、トルシエサッカーの本質がそこにあるわけではない。独自の理論に基づく組織的なスタイルは、フラットで高いラインの3バック――いわゆるフラット3と、(敵の)選手ではなく、ボールの位置に合わせてブロック全体が動き、オフサイドトラップを仕掛けて相手をコントロールする守備、そして選手が連動してオートマティックにボールを回し、相手ブロックに穴をあける流動性にあふれた攻撃を特徴とする。

「個の力ではヨーロッパや南米に劣る日本人も、組織の力で自分たちよりも力が上のチームと互角に戦えるシステム」であり、その実現のために選手が組織と規律を順守するのは、トルシエにとって絶対であった。

「私のシステムを実践するには、規律が必要で、チームの統一感も必要だった。私が日本で仕事をする意義があったのは、日本人には規律があり、人の言葉に耳を傾けられたからだ。選手は私の言葉を真剣に聞き、スタッフや協会の人々も規律にあふれていた。日本で強固なグループを作り上げるのは、私には難しくなかった」
 
 チームは完璧なマシンになって初めて、効果的に機能する。プロセスの途中――60%や70%の段階で、完成度に見合った成果をあげられるわけではない。0か100か。それが、トルシエにとってのチームであった。

 そうして、彼はすぐにある問題に直面した。

「明らかになったのは、フランスW杯に出場した選手たち(の多く)が、私の求める戦術的な知性や技術的な知性を欠いていることだった。彼らは闘志にあふれてアグレッシブだが、技術・戦術面では極めてナイーブであると言わざるを得なかった。

 その点においては、五輪世代やユース世代のほうが能力はずっと高い。だから(代表監督に就任して)2年の間に、1998年W杯世代を徐々に入れ替えて、最終的には数人しか残さなかった。それは、中田(英寿)や服部(年宏)らであり、GKの川口(能活)と楢崎(正剛)も残ったが、他は若い世代にとって代わられた」

 よく覚えているのは、当時トルシエが「1998年世代はコパ・アメリカまでだ」と語っていたことである。

 日本が南米連盟から招待された1999年コパ・アメリカ(パラグアイ)には、1998年W杯世代の多くを主力として参加させる。しかし年が明けた2000年からは、ユース世代を統合した五輪代表でシドニー五輪に臨み、そのチームをA代表と統合してW杯に臨むチームを完成させる――そんなプロセスをトルシエは考えていた。

「"1998年組"はベテランの世代でもあった。中西(永輔)や相馬(直樹)、呂比須(ワグナー)、井原(正巳)......。彼らを若い世代と入れ替えるのは難しくはなかった」

 トルシエには、それが規定路線だった。だが、日本代表を取り巻く環境はトルシエの意図など知らず、性急な結果を求めた。

 コパ・アメリカでグループリーグ最下位に沈むなど、1999年の日本代表はそこまでに全6戦を戦って0勝3分3敗。ひとつも勝ち星を挙げられないなか、トルシエに対する懐疑的な声が出始める。そして、9月に行なわれた年内最終戦、親善試合でイラン相手に引き分けると、協会やメディア、サポーターなどから出てくる批判の声は、一段と増していった。

 しかしトルシエは、そうした批判をまったく気にしていなかった。フランスW杯組中心の代表が成果を挙げられないのは、彼にとっては想定内のこと。思い描いていたのは、翌年からの若い世代によるチーム作り――2002年W杯へとつながっていく道筋であった。

 トルシエの頭のなかには、日韓W杯に向けてのポジティブな要素しかなかった。

 日本サッカー界とトルシエ――両者の齟齬(そご)が、翌年一気に盛り上がる"トルシエ解任論"へと広がっていくが、それはまた別の話。いつか場を改めて、お伝えできればと思う。

(文中敬称略/つづく)

フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。