1992年の猛虎伝〜阪神タイガース史上最驚の2位証言者:湯舟敏郎(後編) 1992年6月14日、甲子園での広島戦。阪神先…
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:湯舟敏郎(後編)
1992年6月14日、甲子園での広島戦。阪神先発の湯舟敏郎は初回から安定していた。5月に3連続KOと不調も、ベテラン捕手の木戸克彦に「完全なボールでもバッターが振ったらストライク」と助言を受け、立ち直るきっかけをつかんでいた。その日の投球について湯舟に聞く。

92年6月14日の広島戦でノーヒット・ノーランを達成した湯舟敏郎(写真右)と捕手の木戸克彦
偉業達成よりも勝てたことに安堵
「広島打線がワンバンのフォークをめちゃくちゃ振ってくれて。木戸さんに言われていたことが、いいように結果として表れました。それまで、先発したら3試合連続で4回持たずにKOでしたから、まず4回を超えられたところがうれしかったですね」
じつに、5回までに奪った8個の三振はすべて空振り。外野フライ3つ、内野ゴロ2つで四球1つと、無安打に抑えていた。一方、味方打線は4回に2点、5回に3点をとって効果的に援護。続く6回は空振り三振、中飛、右飛で、7回も空振り三振、二ゴロ、二飛で終わると、誰も湯舟に声をかけなくなっていた。だが、捕手の木戸だけは違った。
「何を言うかと思ったら、『オレはノーヒット・ノーランをしたことない。優勝して日本一になってるのにしたことない。だから絶対に打たれるな』と......。『なんでプレッシャーかけんの?』って(笑)。でも、後々考えたら、みんなが緊張してるのが僕に伝わっていたなか、『周りの空気なんて気にせんと投げろよ』とラクにしてくれたんだとわかって、あらためてありがたいと思いました」
8回は2アウト後に四球を出したが、後続は空振り三振で11個目。その裏に新庄剛志がダメ押しのソロ本塁打を放ち、6対0として9回を迎えた。湯舟の脳裏をよぎったのは、つい2週前の広島戦。中込伸があと1イニングでノーヒット・ノーランを逃した試合だった。中込ができないのに、オレは絶対無理と思っていたから緊張はなかった。
「だから自分としては、完封できたら最高やな。完封できなくても完投できたらいいよね、と。それで、2アウトになった時に、これやったら狙ってもいいなと」
29人目の打者が打ったゴロは高く跳ねて中堅方向に飛んだが、二塁の和田豊が好捕して一塁に送球し、間一髪アウト。湯舟は史上58人目のノーヒット・ノーランを達成した。木戸と抱き合うマウンドにナインが笑顔で駆け寄り、中村勝広監督も満面の笑みで握手。だが湯舟自身、お立ち台で「ホッとしたって感じですね」と発言したとおり、うれしさとは違う気持ちのほうが強かった。
「やっぱり、3連続KOで抹消を覚悟してましたから、ホッとしたんです。それに最後は『セーフやな』と思ってましたし(笑)。完投できた、いや、その前に勝てたということですね」
シーズン2度の月間MVP
自信を取り戻した湯舟は6月に無傷の3勝を挙げ、自身初めての月間MVPに選出された。その間、チームは上位を走り、前年とはまったく違う雰囲気になっていた。
「チームの雰囲気がいいなかで、僕は同年代のピッチャーを意識していました。マイクさんが勝ちました、中込が勝ちましたってなると、自分も勝たないといけない、勝ちたいという気持ちになる。彼らに置いていかれんようについていこう、という思いが強かったですね」
前半戦を終えた時点で"マイク"こと仲田幸司が9勝、中込が6勝、そして湯舟が8勝。先発投手陣がいい意味で張り合いながら迎えた後半戦。好不調の波がある湯舟の調子は下降し、7月29日の巨人戦から3連敗を喫したが、それでも9月に入って復活する。
10日の広島戦、自身初の無四球完封で9勝目を挙げると、16日の広島戦も9回までゼロに抑え、0対0で迎えたその裏、新庄のサヨナラ2ランが飛び出す。2試合連続完封で10勝に到達した。続く23日の巨人戦は味方打線が零封され、完投しながら1失点で敗戦投手も、好調は維持。同年2度目の月間MVPを獲得する。チームも首位に立ち、優勝が見えていた。
「9月は調子が上がってました。優勝に向けてチームのムードも高まりましたが、何かその賑わい方がお祭り気分みたいになっている感じがして、自分はそれに乗ったらダメだと思ったんです」
先発投手は自分のペースを守ることも仕事。必要以上にチーム状況を気にかけないぶん、たとえチームが連敗中でもプレッシャーを感じずに登板し、連敗を止めることもできる。そう考えていた湯舟にとって、「ムードに乗ったらダメ」と思うのは普通のことだった。
「ただ、後々の結果から考えたら、もっとムードに乗ってもよかったかなと。自分自身、慎重になりすぎたところがあったと思うので。ムードに乗ったら結果がよかったのかどうか、それはわからないですけども」
自分のペースを守って10月3日、横浜大洋戦に先発した湯舟は、2安打7奪三振で完封。これで同7日の胴上げも見えたなか、次は中4日で中日戦の先発が有力とマスコミは予想した。
しかし予想に反して湯舟は、中込が先発した7日のヤクルト戦でベンチ入り。田村勤が左ヒジの故障で離脱して以降、抑えを固定できていない事情もあったが、湯舟のペースは乱された。
天王山でまさかの救援登板
この時、阪神とヤクルトは勝ち負けとも同数で首位に並び、どちらも残り4試合。当然、勝てば有利になる7日の試合は阪神が9回表まで3対1とリード。中込はその裏も続投したが、先頭のハウエルを遊飛に打ちとったあと、広沢克己に四球、続く池山隆寛には安打され一死一、三塁。ここで中村監督が動き、中込に代えて湯舟をマウンドに送った。
「代打で出てきたのが八重樫(幸雄)さんでした。あの時、僕、前半戦最後の試合のヤクルト戦で、8回に八重樫さんに逆転2ランを打たれたんです。その裏に逆転してもらって、結局は勝ち投手になったんですけど、それをパッと思い出してしまいましたね。だから歩かせたわけじゃないんですけども、『あっ、まずいよね、ここでホームランは』って思ったのはたしかです」
打たれた記憶が要因ではないにせよ、ゼロではなく、八重樫を四球で出して満塁。捕手も専任の木戸に代わっていたが、球に勢いがなかった。中村監督がマウンドに行って声をかけるも、続くパリデスには1球もストライクが入らず、連続四球で押し出し。リードは1点になって中西清起に交代したが逃げきれず、最後は荒井幸雄の左前タイムリーでサヨナラ負けとなった。
「中村さん、来ましたね。もう、何を言われたか、覚えてないです。どうしよう......ぐらいしか思えなかったはずです。僕、リリーフしていいことなかったんですよね。ただ、ベンチに入ってたんで、そんなことは言ってられない。勝ってたら、中込は10勝目やったんで、非常に申し訳ないことをしましたね。優勝も全部、僕がぶち壊してしまったので」
断じてそんなことはなく、残り3試合に全勝すれば優勝だった。だが、次の中日戦を0対1で落とし、残るヤクルト戦に連勝すればプレーオフでの決着となった。迎えた10月10日の試合。湯舟が先発したが、気持ちは切り替えられず、7日の結果を引きずった影響で立ち上がりから失点し、2回で降板した。試合は2対5で敗れ、ヤクルトの優勝が決まった。
「いいことも言っていただきますけども、10月7日は悔やまれるマウンドですね。その年のオフだったと思いますが、中村さんに『出したオレが悪いんや』と、おっしゃっていただいたことはありましたけども、しでかしたのは僕やしなあ......と思うと苦しかったですね。結局、あの場面で抑える能力がなかったということだと思います。本当に」
中村監督は7日の試合後、「いま一番安定しているピッチャーだからな」と、湯舟への信頼を示していた。その時、記者たちに発した唯一の談話だったという。指揮官にそこまで頼りにされ、球史に名を残す快挙も成し遂げた92年は、湯舟の野球人生でどう位置づけられるのか。
「調子も含めて、92年が一番よかった年だと思っています。翌年のほうがイニングを投げてるんですけども、92年は木戸さんに勉強させてもらい、マイクさん、中込を意識して勝ちたいと思えた。残念な結末になっちゃいましたけども、僕のなかでは中身の濃い、実りの大きい年になったことは間違いありません」
(=敬称略)