「元Jリーガー社長のキャリア選択」第2回、名門高校での飛躍と抱えていた膝の痛み 1993年の開幕から30シーズン目を迎え…

「元Jリーガー社長のキャリア選択」第2回、名門高校での飛躍と抱えていた膝の痛み

 1993年の開幕から30シーズン目を迎えているJリーグは、これまで時代を彩るスターを生み出してきた一方、毎年多くの選手が現役生活に別れを告げ、人生の選択を迫られてきた。期待の大卒ルーキーとして2004年にFC東京に加入した中村亮は、怪我によりわずか2年でスパイクを脱いだ。引退から8年後、米国留学をサポートする会社を起業したが、そこへ至るまでの道のりで転機となったのは、プロ生活を断念した直後、中学校の教員として過ごした2年間だった。(取材・文=加部 究)

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 3歳でボールを蹴り始めた中村亮は、ほぼ20年間をかけてJリーガーになった。

 もっとも最初の頃は「砂いじりやコーナーフラッグの近くでだんご作りに夢中だった」そうで、本当にプロへの憧憬を抱いたのは小学6年生の時にテレビ中継された煌びやかな記念すべきJリーグ開幕戦を目にしてからだという。

 185センチの長身、駿足、それに1割前後の稀有な左利き。3拍子揃った逸材は、しかし最初からエリート街道を突っ走ってきたわけではなかった。兵庫県内屈指の強豪滝川第二高には一般受験で臨み、合格してサッカー部に入ろうと希望するが、そこで初めて一般受験生は入部できないことを知る。

「中学3年の夏にセレクションがあったことも知らず、後から中学時代に在籍した須磨FCの監督から入部をお願いして頂きました」

 当時滝川二高を率いた黒田和生監督からは「3年間辞めない」ことを唯一の条件に入部を認めてもらった。そんな調子なので、入学当初は「県内外の選手たちが集まるなかで、周囲のレベルの高さに驚きながら」毎日を過ごした。だが2年生の冬、唐突にチャンスが到来する。全国高校選手権兵庫県予選決勝の前日に黒田監督に呼ばれ「明日スタメンで行くわ」と告げられるのだ。

 それまで一度もベンチ入りしていなかった中村にとっては、「この人、いったい何を言い出すんだ」と青天の霹靂で、無我夢中でプレーした決勝戦の記憶はほとんどない。だが神戸弘陵高を下し本大会への出場を決めた試合の録画を見直してみると、アナウンサーは黒田監督の「中村は隠し球」という言葉を再三引用していた。

プロ2年目での引退決断は間違っていなかった

 中村のサッカー人生は、この頃から一気に華やいでいった。

 1998年度全国高校選手権では準決勝に進出し、この年に三冠で圧倒的な強さを誇った東福岡高に2-3と肉薄した。翌3年時の全国高校総体(インターハイ)では大会のベスト11に選ばれ、それ以降は「自分の長所を自覚し自信を持ってプレーできるようになった」と振り返る。

 滝川二高を卒業すると「教員免許を取るために」鹿屋体育大学へ進み、4年時には現鹿島アントラーズ監督の岩政大樹や清水エスパルスなどで長くプロで活躍した兵働昭弘らとともに、2003年のユニバーシアード大邱大会に出場し金メダルを獲得。Jリーグの4~5チームが争奪戦を繰り広げることになる。

 だが反面、中学時代から長い付き合いになる膝痛の限界が、確実に忍び寄っていた。

「中学時代から、よく半月板がロックしたような状態になり、自分で戻してプレーを続けてきました。でも大学の後半頃からは、もう自分ではロックを解除することができなくなり、病院では手術を勧められていました。しかし膝にメスが入った選手をプロが獲るとは思えないし、だから誰にも怪我のことは言えなかったんです」

 結局ずっと避けてきた手術は、2004年にFC東京でプロ生活をスタートさせた直後という最悪のタイミングで受けることになる。そしていくらリハビリを重ねても膝の可動域は戻らず、復帰をすれば水が溜まる悪循環を繰り返すことになった。

 FC東京からは2年目のオフが近づくと契約更新をしないことを告げられた。クラブは移籍先を探してくれたが、中村は「1年後も同じ状態でいる」姿しか想像できず、ここで現役生活にピリオドを打つ。当然サッカーへの未練はあったが、今でも決断は間違っていなかったと確信している。

ピュアな中学生たちと向き合った「幸せな時間」

 引退後の約2年間は、横浜の公立中学校で体育の先生を務めた。毎日「目がキラキラと輝くピュアな生徒たちと向き合うのは幸せな時間」で、すっかり傷心が癒されパワーをもらい、教育現場に携わる歓びも実感した。とりわけ元Jリーガーは、やんちゃ坊主たちに圧倒的な人気を集め、「逆に固めの優等生たちからは睨まれたかな」と笑う。

 こうして充実の日々を過ごしたからこそ、中村は「もう一度、自分を主役にしてチャレンジして、これから生き抜いていく術を探したい」と考えた。サッカーを職業にするのには20年間近い歳月を要したのだ。その後の長い人生を懸ける武器が、そう簡単に見つかるはずがないと思った。

 辿り着いた結論は、一念発起して米国留学を目指すことだった。(文中敬称略)

■中村 亮(なかむら・りょう)

 1981年8月13日生まれ、兵庫県出身。長身サイドバックとして滝川第二高校で頭角を現すと、98年度の全国高校サッカー選手権でベスト4に進出。鹿屋体育大学でも活躍し、2003年には大学選抜の一員としてユニバーシアード大邱大会で優勝した。04年にFC東京へ加入するも、怪我の影響によりJリーグのピッチに一度も立つことなく05年限りで引退。その後は中学校での教員生活などを経て、米国へ語学留学した。自身の現地での経験から起業を思い立ち、現在は株式会社WithYou代表として、日本から米国へのサッカー留学をサポートしている。(加部 究 / Kiwamu Kabe)

加部 究
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。