サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト・大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回のテーマは「ドイツ」。

■唯一の「世界への窓」から欧州へ

 それにしても入社1か月の社員に2週間近くの休暇を与えるなど、当時のベースボール・マガジン社はとても鷹揚な会社だったし、池田社長は、身体的にだけでなく、心も「太っ腹」な人だった。しかも、帰国して月刊誌の編集が済んだら、書いた記事に対し、社員であるにもかかわらず「原稿料」を払ってくれるという。私の「自腹(いや、「親腹」か)」は、たちまち回復するという、願ってもない話だったのである。

 この大会の現地取材のチーフであったTさん、編集長、Yさん、そして私の4人がドイツに行くことになり、東京の編集部に残るのは、Hさんと、アルバイト2年目のCさんの2人だけになった。Cさんは後に社員となり、私が『サッカー・マガジン』を離れた1982年から16年間にわたって編集長を務めることになる。

「アエロフロートはひどい。食事もまずい」という評判だった。だがなにしろ初めての飛行機、初めての海外旅行である。比較のしようがなかったし、機内食については、キャビアがついていたので驚いた覚えがある。フランクフルト行きの便に乗り換えたモスクワの空港は、木造で、山小屋のような雰囲気だった。羽田を朝11時40分に出発、フランクフルトに到着したのは、同じ6月12日の午後6時半だった。

 そう、当時の東京からの唯一の「世界への窓」は羽田空港だった。成田空港はまだ建設反対闘争の真っ最中で、開港は4年後、1978年ワールドカップの直前になる。当時は「海外旅行」は人びとの「夢」だったから、出発時には、家族だけでなく友人もこぞって羽田空港まで送りに行くのが当然だった。前年の「第一次オイルショック」の影響で1ドルは300円近くまで下落しており、海外に行くというだけで大事件だった時代なのだ。

■人生における不思議な出会い

 というわけで私にとっての初の海外は、6月12日夕刻のフランクフルトで始まる。中央駅に近い小さなホテルにはいったのは午後8時過ぎ。食事をとったのち、ホテルの1室で編集長、Tさん、Yさん、私と、2人のカメラマンをまじえて打ち合わせが始まったのは、なんと午前0時だった。議論は熱し、ときに大声が出るようになる。

 すると突然、部屋の壁が強くドンドンと叩かれ、やがてドアを強くノックする音がする。Tさんがドアを開けると、そこに立っていたのは、英国人のカメラマン。「うるさくて寝られないから静かにしろ!」と怒鳴っている。おっしゃるとおり。以後小声で話すようにして、就寝できたのは午前3時のことだった。

「ピーター・ロビンソンだよ」。隣室の英国人が去った後、Tカメラマンが教えてくれた。英国の有名なフリーランスのカメラマンらしいが、性格が狷介で、日本人カメラマンを良く思っていないと聞かされた。その彼が、後年、聡明な日本人女性と結婚して性格まで一変して穏やかになり、私とも非常に仲の良い友人になる。人生は不思議だ。

 だが、翌日、バルトスタジアムで行われた開幕の「ブラジル×ユーゴスラビア」で私が睡魔と戦い続けなければならなかったのは、時差ぼけと睡眠不足が重なっただけではない。試合が恐ろしく退屈だったことが最大の原因だった。降りしきる雨のなか見た開幕戦。常に太陽とともにあった(欧州へのテレビ放送のために夜間の試合はなく、日中の試合ばかりだった)4年前のメキシコ大会とはずいぶん違うなというのが、「ワールドカップ初体験」の私の感想だった。

■ドイツ国鉄で国内を往復

 Hさんが買わせておいたチケットは、ブラジル戦が中心だった。組分け抽選会は、この年が明けてから1月に行われたのだが、ブラジルは開催国西ドイツとともに予選を免除され、早くから試合会場も決まっていたし、何しろ4年前の優勝国である。ペレはすでに代表から退いていたが、リベリーノを中心にジャイルジーニョなどスターも揃っていた。

 日本からもっていったチケットは、6月13日の「ブラジル×ユーゴスラビア」(フランクフルト)、14日の「ザイール×スコットランド」(ドルトムント)、15日の「スウェーデン×ブルガリア」(デュッセルドルフ)、18日の「ブラジル×スコットランド」(フランクフルト)、19日の「オランダ×スウェーデン」(ドルトムント)、そして22日の「ザイール×ブラジル」(フランクフルト)の計6試合分だった。私は、先輩のYさんとほぼ行動をともにしながら、フランクフルトとルール工業地帯をドイツ国鉄で行ったり来たりしながら初めてのワールドカップを楽しんだ。

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