かつて千葉ロッテマリーンズで活躍し、”ジョニー”の愛称で今もファンに親しまれている黒木知宏氏が9日、プロ野球OBクラブのオンラインサイン会「Autograph Collection」にゲスト参加した。

現役時代の勇姿を知るファンと画面を通じて交流を図るとともに、イベント後の取材では現役時代や今後の目標について語ってもらった。

前編では投球スタイルのルーツからプロ入り、長いリハビリに入る01年までをお送りする。

投球スタイルの原点は社会人時代

宮崎県出身の黒木は延岡学園高で3年夏に甲子園出場。卒業後は社会人野球の新王子製紙春日井に入社し、1994年の都市対抗野球では本田技研鈴鹿の補強選手として優勝に貢献した。

同年のドラフト2位で千葉ロッテマリーンズに入団し、98年に最多勝(13勝)と最高勝率(.591)のタイトルを獲得するなど、90年代後半から00年代初頭のロッテのエースとして君臨した。

黒木の代名詞は気迫のこもったピッチング。投球時に相手の応援歌をも突き抜ける声と気持ちを乗せたボールで打者を圧倒し続け、ファンそしてメディアは右腕を”魂のエース”と称した。

この原点は社会人時代にさかのぼる。

「高校時代は監督の教えもあり、感情を表には出しませんでした。社会人に入り結果が出ない時期があって、その時にチームの先輩から『打たれて命を取られる訳ではない。立ち向かって行くためにも気迫を表に出して見たらどうか』と言っていただいたんです」

何かを変えたいと思った黒木は、早速実践した。継続することで自らの形になり、闘争本能が自然と芽生えて行き”相手をねじ伏せる”気持ちが沸々と沸いていった。

このスタイルがプロへの扉を開き、07年にユニフォームを脱ぐまで黒木の代名詞となったのだ。

また、黒木が座右の銘としているのは”氣”。投球スタイルと共に醸成されたものである。

「気迫・気持ち・気合い。やはり原点は社会人時代です。気合いというのはずっとグラブに記していましたし、帽子のつばの裏にも書いていました。その他にも元気・やる気・勇気・根気など全てが詰まっているので、”氣”を大事にしたいと思ってプレーしていました」

黒木の座右の銘である「氣」

受け継がれた「背番号54」

黒木のもう一つの代名詞と言えるのが背番号「54」。日本の野球界では投手の番号はエースナンバーと呼ばれる18番を始め、主に10番台を背負うことが多い。

しかし、黒木はこの54番を引退まで13年間着け通した。

「僕が54番を着けて、石田雅彦さんが僕と入れ替わりだったのですが、1年目のキャンプの際に『この54番をジョニーのために9年間温めておいたよ』という言葉をいただいたんです」

石田は桑田真澄・清原和博のKKコンビと同年代。川越工業高から85年ドラフト1位でロッテオリオンズ(当時)に入団し、背番号54を着けプレーした。しかし、故障などもあり94年限りで現役を引退し、以降は現在までロッテの打撃投手を務めている。

「石田さんの想いを込めて、もっと世の中に広めていきたいというのもありました。なのでずっと54番にこだわってきました」

主力となった後、社会人時代背負った11番やエースナンバーである18番を提示されたが、変更することはなかった。

背番号54についてのこだわりも語った

エースとしてフル回転

黒木は1年目の95年から20試合に登板し5勝、翌96年には8勝と頭角を表していく。97年は15敗ながら12勝と初の2桁勝利、リーグ最多完投(13)を記録し、98年には冒頭の通り最多勝と最高勝率のタイトルを獲得。

99年には初の開幕投手を務めるとともに自己最多の14勝を挙げ、小宮山悟・伊良部秀輝らが築いてきたロッテのエースの系譜を受け継いでいった。

特に、97年の240.2回を含め99年までの3年間は平均投球回数は約217回と、チームのためにフル回転していた。

特に98年は今も日本記録となっている18連敗中、先発から抑え、再び先発に戻るなどポジションが変わることもあった。それでもチームの勝利のため腕を振り続けた。

「チームが優勝するために若い自分が先頭に立ってやらなきゃいけない・自分の身を粉に、骨が砕けても何でもなんとか投げ切ろうという想いでずっとやってきました」

2000年、「野球をやりながらの苦しみ」のしかかった重圧

そして翌00年、長年チームを支えてきた小宮山が横浜(現:DeNA)へ移籍。大黒柱として強い自覚を持って臨んだシーズンだった。

しかし、キャンプ中に肉離れを発症。なんとか開幕に間に合わせ、2年連続の開幕マウンドに立つも前半戦は本来の調子とはほど遠い状態に。一時は防御率が10点を超えるなど、初勝利が5月12日のオリックス戦と約1ヶ月半を要した。

「投げ続けているのに結果を出せなかったシーズン。チームを先頭で引っ張らないといけない立場でありながら、逆に足を引っ張っていました。野球をやりながらの苦しみがありましたね」

さらにこの年の夏はシドニー五輪が行われる年でもあった。黒木も前年から日本代表入りが決まっており、別の重圧とも戦っていた。

「このままではいけないと思いましたし、自分の調子が悪くても日の丸を背負わないといけない重みというのもありました」

2000年は悩み続けた年だった

辞退も考えたほど悩み続ける日々。しかし、その背中を思い切り押してくれた恩人がいた。

「『お前を待っている人たちがいる。だから挑戦しろ。辞退はダメだ。行け!』と言ってくれたのが山本功児監督でした。後ろから背中を押してくれたんです」

初のプロアマ合同で行われた五輪。準備期間も短い中、どのようにチームを1つにするかといった課題もあった。

そんな中、杉浦正則(日本生命)や飯塚智広(NTT東日本)らとコミュニケーションを重ねながら、自らムードメーカー役も買って出た。五輪では5試合に登板し1勝1敗で防御率3.00、投球回数は松坂大輔(西武)に次ぐ15回とここでもフル回転で日本を牽引した。

そしてシーズンでも序盤の不調から巻き返しを見せ、4年連続二桁勝利(10勝)をマークした。

2001年、好調の裏で悲鳴を上げた右肩

前年の悔しさを持って臨んだ01年のシーズン、黒木は3年連続開幕マウンドに立つ。松坂との投げ合いを制し”21世紀初の勝利投手”となると、前年とは打って変わり開幕から連勝を重ね、9連勝まで伸ばした。

しかしこの間、長く苦しめられることになる右肩の違和感が忍び寄ってきていた。

「この年の6月くらいから違和感が出始めました。金田(正一)さんから『気をつけろよ。肩そろそろやるぞ。足に粘りがないぞ』とちょうど言われてすぐだったんです。偉大な方はしっかり見てるんだなと改めて思いましたね...」

01年、肩の痛みは徐々に黒木を襲った

その違和感は1球投げた際に切れたのではなく、徐々に来るものであったためなおさら苦しめるものとなった。

「プチっと来たならすぐ(投球を)やめられるんですけれども徐々になので、少々痛くてもバッターが目の前にいると投げれてしまうんです。調子も良かったですから」

連勝が止まっても投げ続け、前半戦だけで11勝を挙げた。オールスターのファン投票でも1位で選出され、第1戦の先発投手も務めた。しかし、右肩はついに悲鳴を上げ、7月27日のオリックス戦を最後に背番号54はマウンドから約3年近く姿を消すことになる。

(つづく)

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(取材協力:日本プロ野球OBクラブ、写真 / 文:白石怜平 ※以降、敬称略)