2021年8月、東京2020パラリンピック。6人のアスリートで構成された難民選手団のひとり、イブラヒム・アル・フセインは、男子水泳100m平泳ぎ(SB8)と、50m自由形(S9)に出場した。体調を崩し、ドクターストップがかかるなかでの渾身の…

2021年8月、東京2020パラリンピック。6人のアスリートで構成された難民選手団のひとり、イブラヒム・アル・フセインは、男子水泳100m平泳ぎ(SB8)と、50m自由形(S9)に出場した。体調を崩し、ドクターストップがかかるなかでの渾身のレース。泳ぎ切ることこそ、使命だと感じていた。彼が命がけで伝えたかったことは何か。難民パラリンピアンの思いを聞いた。

子どものころは、友だちと釣りに行くのが好きでした。16歳のとき、アテネオリンピックが開催され、競泳を見ながらどうしたら僕もオリンピックに行けるのかなと思ったことを覚えています。

イブラヒムは難民選手団として東京パラリンピックに出場した

 海外でも成績を残している元水泳選手の父の影響で、5歳から水泳を始めました。でも、父は厳しくて頭が固く、僕は反発心から10歳のときから柔道を始めたんです。国際大会に出るチャンスもありました。だから、僕は、水泳より柔道に育ててもらった思いがありますね。努力を続ければ成功できるんだ、という粘り強さを学びました。

 今生きていても、いつ誰が死んでもおかしくない状況でした。あるとき、1分間でどれくらい空爆があるのか数えたら、48発もあって……。おそらく街に残った人で、生き残ったのは5%くらいだったのではないでしょうか。

 もし、デリゾールを離れようとしたら、政府軍に捕まって即入隊させられることが分かっていました。もし拒めば死が待っているし、受け入れれば、誰かを殺さなければならない。僕はそのどちらも嫌で外に出られなかったのです。

死と隣り合わせだった内戦について語るイブラヒム

 友人を助けることに一瞬の躊躇もありませんでした。たとえ通りすがりの人でも同じことをしたと思います。結果として、僕の足はなくなりましたが、友人は助かり、その後、トルコで3人の子どもの父になったので、これでよかったのです。あとから考えてみれば、このとき、僕が砲弾で死ななかったことは、もっと人を助けろという運命だったのだとも思っています。

 山側に行けば政府軍がいて100パーセント捕まってしまう。だったらユーフラテス川を渡って東に行かなければなりませんが、橋にはスナイパーが待ち構えている。だから、ボートで川を渡ったんです。このときが一番、大変でしたね。生き延びられる可能性は50%くらい。でも、いつ死んでもおかしくない状況にずっといたので、恐怖心もありませんでした。

死の淵から抜け出すも、今度は生きる苦しみに直面

 僕がトルコで求めたのは、まず足の治療。そして自立した生活。でも、トルコでは難民10人ぐらいが地下で身を寄せ合っていたため、ぐっすり眠れるような環境ではありませんでした。それに足の治療も満足のいくものではなくて……。もらった義足は、300m歩くごとにねじが外れ、ドライバーで締め直さなければならないし、抗生物質もお金とコネがないと手に入らない。感染症を患い、命が危ないときもありました。やはり絶望的だったのです。

 「ヨーロッパに行って社会復帰するんだ」という気持ちがあったので、僕は精神的につぶれずに済みました。1000人くらいに話して、皆「(ヨーロッパで社会復帰は)無理だよ」と信じてくれなかったけど、「このままではダメだ」と判断し、怖かったけど密航業者と交渉し、ギリシャに行くことにしたんです。

 ボートに乗った人たちの顔には、恐怖が浮かんでいました。でも僕は、このときも、「トライして失敗しても、死んだら死んだで楽になる」と思っていたので、死ぬこと自体は怖くなかったんです。これは本心ですよ。

6月20日の「世界難民の日」に合わせて来日。多くの取材やイベントをこなした

 人生で一番よい日でした。だから、僕はこの日を「誕生日」と言っています。それまでは死んだも同然だったのに、息を吹き返した。新しい人生が始まったんです。

出会いに恵まれ、アテネで自立した生活を得る

 この頃のきつさにも形容しがたいものがあります。でも、そのシリア出身の男性が、「義足を履いている友人のギリシャ人にどうにかならないか聞いてみる」と言ってくれて、翌日にはもう、お医者さんに診てもらえることになったんです。

右ひざ下切断のイブラヒムは、車いすバスケットボールもプレーする

 義足、杖なしで歩くための理学療法、感染症治療のための抗生物質の代金などです。本当にありがたかった。彼のことは、今でも兄のように慕っています。

スポーツが生きる力を与えてくれた

 でも、私が難民で障がいがあることから、なかなか受け入れてくれる場所がなかったんです。探し回って、5月にようやく見つけたのが車いすバスケットボールのチーム。でも泳げるところは、ずっと見つからなくて、やっと受け入れ先を見つけたのは、翌2015年の10月でした。

 スポーツは、難民に認定され、ギリシャに留まることを許された僕が、社会に溶け込むための役割も果たしてくれました。スポーツがあったからこそ、僕は支えられ、生きていく力を得られたのです。

 僕が難民なので、記録としては認められませんでしたが、この大会に出たことがリオパラリンピックの聖火ランナーに選ばれるきっかけになったんです。マスコミにこれまでの生きざまを取り上げてもらった僕は、「パラリンピックに出ることが夢です」と答えました。この言葉が難民選手団の関係者に届いたのか、そのわずか10日後、「君が難民選手団の一人に選ばれた」と連絡が来ました。信じられない気持ちでいっぱいでした。

 私の歩んだ道のりは、実際、苦しさに満ちています。だからこそ、僕のことを知って、難民や障がい者になった人に、「それでも人生は終わりではない、できることはたくさんある」と伝えたいのです。そして、多くの人に難民の苦しみを知ってもらい、難民支援の輪をつないでいきたいと思っています。

「次世代の障がいのある難民の人たちが活躍できる機会を作っていきたい」とイブラヒム

edited by TEAM A

interview by Yoshimi Suzuki

photo by Hiroaki Yoda