日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画「日本サッカーの過去・現在、そして未来」中村憲剛×佐藤寿人第11回「日本サッ…

日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
中村憲剛×佐藤寿人
第11回「日本サッカー向上委員会」@中編

 1980年生まれの中村憲剛と、1982年生まれの佐藤寿人。2020年シーズンかぎりでユニフォームを脱いだふたりのレジェンドは、現役時代から仲がいい。気の置けない関係だから、彼らが交わすトークは本音ばかりだ。ならば、ふたりに日本サッカーについて語り合ってもらえれば、もっといい未来が見えてくるのではないか。飾らない言葉が飛び交う「日本サッカー向上委員会」、第11回は今年11月にカタールで開催される4年に一度のビッグイベント「ワールドカップ」について語ってもらった。

>>第11回@前編はこちら>>「岡野!なんでパスしてるんだよ!」

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2006年ドイツ大会の日本代表メンバーを発表するジーコ監督

---- 20年前の日韓ワールドカップの盛り上がりは、本当にすごかったですよね。日本中が熱狂しました。

中村 ベルギーと引き分け、ロシアに勝って、チュニジアにも勝って、決勝トーナメントの1回戦はトルコだったから、もっと上に行けるって大盛り上がりだったんですけどね。

---- 最後は消化不良に終わってしまいました......。

中村 見ていても、予選リーグの時よりもスタジアムが盛り上がりに欠けた感じでしたよね。雨で日本中の盛り上がりが鎮火させられたみたいな感覚で。「どうした、日本?」みたいな感じで終わってしまったのは残念でしたね。

佐藤 あの時はトルシエ監督が、メンバーを変えたんですよね。「なんでいじったの?」って思いましたもん。

中村 もちろんケガだったり、疲労だったり、いろんな理由があったとは思いますけど、メンバーを変更せざるを得なかったことでそれまでの連係が少しなくなってしまったなと、学生ながら見て感じました。

 個人的には、あの時の日本代表の裏側を撮影し続けていたDVDが大会後に発売されたじゃないですか。『六月の勝利の歌を忘れない』っていうタイトルで。あれは人生のなかで一番見たDVDと言っても過言ではないくらい、大好きな作品ですね。

---- 岩井俊二監督が撮影されたんですよね。

中村 本当に裏側を見せてくれたので、めちゃくちゃ面白かったし、チーム作りという観点でとても勉強になりました。あのDVDを見て、ゴンさん(中山雅史)と秋田(豊)さんたちベテランがなぜこのチームに組み込まれたのか、というのがとてもわかりましたから。

佐藤 サプライズで入りましたからね。

中村 今でも映像で覚えているのは、最初に(宿舎の)北の丸の入り口で秋田さんとゴンさんが会って、「お互いに滑り込みセーフだな」って冗談っぽく言うんですよ。でもそのあとに、「俺らがやらないとダメだよ」って気合いを入れ合うシーンは、本当にしびれましたね。

---- そうした日本代表の試合や映像に触れるなかで、「次は俺が」という想いは生まれましたか?

中村 いや、まったくなかったです(笑)。その年の秋くらいにフロンターレに入ることは決まりましたけど、4年後もこの人たちが中心になってやっていくんだろうなと。若い選手が多かったですからね。そのなかに自分が入るなんてことは、考えもしなかったですよ。

佐藤 僕の場合はその年、プロ3年目でしたけど結果を出せていなかったので、プロとして生き残れるかどうかさえもわからない状況でした。だから、日本代表に入ってワールドカップを目指すなんて思ってもいませんでしたし、どうやってプロの世界で生き残れるかだけを考えていましたね。

---- 当時は高卒3年、大卒は2年で結果を出さないといけないと言われていましたからね。

佐藤 森島さん、西澤さん、ユンさんが代表に行ったので、ワールドカップ前は出場機会が増えたんですよ。そもそも、ワールドカップ期間中に選手が抜けることを見越して、セレッソは僕を獲得したと思うので。でも、そこで結果を出せず、ワールドカップが終わって3人が帰ってきてからは、ピッチに立つどころかベンチにも入れなくなりました。だから、あの時は先を見る余裕はなかったですね。

---- 日本でワールドカップが開催されたことは、今振り返ってどういった影響があったと思いますか。

中村 日本人にとってワールドカップ、そしてサッカーが身近になりましたよね。当然ですけど、実はそれはとても大きいことだと思いました。ワールドカップを自分の国で体感したことで、サッカーを始めた子どもも増えただろうし、Jリーガーを目指す子どもも増えたはず。

 当然、経済効果もあっただろうし、日本代表を見る目も変わっていった。いろんなものが日本に残ったと思います。個人的に言えば、マラドーナから始まったワールドカップが、自分の国に来たというインパクトは本当に大きかったですよ。

佐藤 日韓ワールドカップが終わったすぐあとに、2004年のアテネオリンピックに向けてU−21代表が始動したんです。トルシエさんの下でコーチを務めた山本昌邦監督が「アテネ経由ドイツ行き」というキーワードを掲げて活動をスタートさせたんですが、僕らアテネ世代にとって、ワールドカップが自国で開催されたことは刺激になったし、次のドイツを目指そうという選手は多かったと思います。

 僕の場合はさっきも言ったように、選手でいられるかどうかわからない状況だったので、そういう想いにはならなかったですけど、世代的にはまずはアテネのピッチに立って、ドイツに行くということを、リアルに考えられるようになっていたとは思います。

---- おふたりが本格的にワールドカップ出場を目指すようになったのは、いつくらいですか。

中村 2003年にプロになりましたけど、最初の2年間はJ2でしたし、J1に上がった2005年にはもうジーコジャパンの骨格は出来上がっていましたから。

 そもそも2005年に初めてヤットさん(遠藤保仁)や(小笠原)満男さんと対戦するようになって、ふたりはひとつ歳上でしたが、「こういう人たちがA代表なんだ」と思いながらプレーしていたので、2006年のワールドカップに自分が出るなんて、1ミクロンも思っていませんでした。ただひたすら、J1の壁を感じていましたよ。

佐藤 僕の場合は、2005年に仙台から広島に移籍したんですが、日本代表に入るということがひとつの理由でもありました。セレッソでは結果を出せなかったですけど、2003年に仙台に行って9点取ることができて、2004年はJ2でしたけど20点取ることができました。でも、そこで一番感じたのは、J2でいくら結果を出しても、代表には呼ばれないということ。

 高校の時から選抜などで一緒にプレーしていた同世代のオグリさん(大黒将志)がJ1で結果を出して、代表に選ばれたのも刺激になりました。J1とJ2では、1点の価値が違う。代表でプレーすることを考えたら、何年もJ2にいてはいけないという危機感が生まれたんです。もちろん、仙台をJ2に落としてしまったという責任も感じていましたし、葛藤もありましたけど、広島に行くことに決めました。

---- 広島に移籍した2005年に18ゴールを挙げたことで、日本代表入りを果たすことになりました。

佐藤 ワールドカップまで半年というタイミングで初めてジーコジャパンに呼んでもらったんですが、すでにメンバーが固まっているなかで難しさもありました。世間ではメンバー生き残りをかけたサバイバルという感じで煽られていたんですけど、個人的にはワールドカップに行ける可能性は1パーセントくらいだと思っていました。

 でも、FWというポジションはわかりやすいですから、ゴールという結果を出せば、1パーセントを10パーセントにすることができる。もしかしたら最後のワンピースに選んでもらえるかもしれない。そう思いながらやっていました。ジーコさんにもチャンスを与えてもらっていたので、もっと目に見える結果を出していれば、「タマーダ」のあとが「マキ」じゃなくて「サトウ」になっていたかもしれないですね(笑)。

>>後編につづく>>「人生で初めて監督に直談判しに行こうと思った」

【profile】
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都小平市出身。久留米高校から中央大学に進学し、2003年にテスト生として参加していた川崎フロンターレに入団。2020年に現役を引退するまで移籍することなく18年間チームひと筋でプレーし、川崎に3度のJ1優勝(2017年、2018年、2020年)をもたらすなど黄金時代を築く。2016年にはJリーグ最優秀選手賞を受賞。日本代表・通算68試合6得点。ポジション=MF。身長175cm、体重65kg。

佐藤寿人(さとう・ひさと)
1982年3月12日生まれ、埼玉県春日部市出身。兄・勇人とそろってジェフユナイテッド市原(現・千葉)ジュニアユースに入団し、ユースを経て2000年にトップ昇格。その後、セレッソ大阪→ベガルタ仙台でプレーし、2005年から12年間サンフレッチェ広島に在籍。2012年にはJリーグMVPに輝く。2017年に名古屋グランパス、2019年に古巣のジェフ千葉に移籍し、2020年に現役を引退。Jリーグ通算220得点は歴代1位。日本代表・通算31試合4得点。ポジション=FW。身長170cm、体重71kg。