岩田稔インタビュー(前編) 夏の甲子園に続く地方大会が各地で始まるなか、全国制覇に最も近いと見られるのがセンバツ王者の大…
岩田稔インタビュー(前編)
夏の甲子園に続く地方大会が各地で始まるなか、全国制覇に最も近いと見られるのがセンバツ王者の大阪桐蔭だ。名門の地位を着々と固める同校は、高校野球での栄冠の先にプロでの活躍も見据えられ、有力中学生たちの憧れの的になっている。
1998年に就任した西谷浩一監督のもと、強さの"出発点"となったのが2001年のチームだった。甲子園にこそたどり着けなかったものの、プロ野球で6度の本塁打王に輝いた中村剛也(西武)が4番を打ち、1学年下には西岡剛(福岡北九州フェニックス)がいた。
彼らとともにチームを牽引したのが、関西大を経て昨年まで阪神で16年間プレーした左腕投手の岩田稔だった。

大阪桐蔭時代の岩田稔
入部1週間で体重10キロ減
「とにかくしんどい3年間でしたね。中学校の時、シニアの指導者から『(大阪)桐蔭に行きたいなら今の練習では足らん』と言われて、週5日だった練習が毎日になりました。淀川の河川敷を2時間ずっと走らされたりしましたが、桐蔭の練習は想像以上にしんどかったです」
体重80キロ強で大阪桐蔭に入学した岩田は、1週間で10キロ近く痩せたという。授業が終わったらすぐにユニフォームに着替え、生駒山の麓にある学校からグラウンドまでの"獣道"を毎日20分走って通ったからだ。
チームがシートノックなど基礎的な練習をしている間、投手陣は坂道ダッシュを繰り返した。バッティング練習中は両翼のポール間を走り、終了後にはチームのランメニューが待っている。タイム走では設定時間を切れないとやり直しになり、腹筋がつることもあった。
「タイムを切れなくて、やり直しばかりでした。でも、数をこなすことはすごく大事じゃないですか。数をこなさないと体に染み込まないので。当時は球数を投げてフォームを覚えることが"基本"と言われていた時代で、そればかりやっていました。今は科学的な考え方が入り、トレーニングを融合させながら効率よくと変わってきていますが、僕が高校生の頃は走ってやり直し、走ってやり直しで......。知らぬ間に体が強くなっていました」
岩田は1年秋の大会で、3番手投手としてベンチ入りを果たした。走って体を鍛えることに加え、投げて結果を出すことが求められるようになった。
毎日どれだけ投げるかは選手各自に任され、コーチが指示を出してくることはない。だが、腕組みした西谷監督にジッと視線を向けられると、プレッシャーを感じてなかなかやめることができなかった。
走り込みで覚えた"サボり"
以上は今から約20年前の話だ。以降、投手の上達法はさまざまにアップデートされている。岩田自身、関西大学入学後に飛躍したのは新しい取り組みを始めたからだった。
「ウエイトトレーニングをやり出したんですよ。高校時代に走ってきた土台をさらに強化するには、なんだろうと考えて。高校時代もウエイトトレーニングはありましたけど、冬場しかやらなかったので。高校野球が終わった時にトレーニングに行かせてもらって、ウエイトをやるようになってから体重が増えて、球速が速くなって。そこで初めてウエイトの大事さを学び、走るだけがすべてではないと感じるようになりました」
ピッチングで大切な要素のひとつに瞬発力がある。投手には瞬間的な出力が求められるなか、果たして走り込みという伝統的なメニューに意味はあるのか。賛否両論渦巻くなか、37歳まで現役を続けた岩田は自身の経験からこう語る。
「僕は走り込みによって"サボる"ことを覚えました。全部が全力でやったら、絶対ケガします。本気で走るところはベストタイムを出しにいくけど、抜いていいところもある。それはピッチングにも通じていると思います。全部を全力でいったら持たないので、力を抜くためにも緩めの球種を投げたりするわけじゃないですか。それと一緒やなと思いながらランメニューをやっていました」
大事なのは、何のために走るのかだ。岩田が続ける。
「僕は必要だと思いますね。やっぱり走れなくなったら、動けなくなるので。走れている時のほうが、投球の再現性はすごく高くなると思います」
今春のセンバツ決勝を18対1という記録的なスコアで勝利するなど、現在の大阪桐蔭には「一強」「強すぎる」という声もあがるほどだ。他校を圧倒する土台には優れたフィジカルがある。
近年、トレーニングで肉体を鍛える重要性や、逆に骨端線が閉じるまでは身体の成長を大事にすべきという人体の基礎知識は野球界でもだいぶ広まってきた。なかでも大阪桐蔭がトップを走る要因について、岩田はOBとしてこう考えている。
「桐蔭には社会人野球を経験したコーチもいるので、自分がやってきたことを高校生に教えていると思います。ランニングも大事だし、トレーニングも大事だしということで、ああいう体ができていると思うんですよ。食事も関係しているでしょうね」
1学年20人の大阪桐蔭は全寮制だが、岩田の頃は通いの学生もいた。グラウンドでは照明をつけて夜の10時頃まで練習が行なわれ、「なんでライト(照明)があんねん!」と選手間で文句が出るほどだった。チームでメニューが組まれ、岩田によれば「やらされていた」。寮生のなかには居残りで打撃練習を行なう者もいたという。
食事の量は「結構多かった」と岩田は振り返るが、高校2年冬に1型糖尿病になると栄養バランスに気を配った特別メニューが用意された。「どれだけ野菜を食うねん」という量が丼鉢に入れられ、食べ終わったらおかずとご飯に手をつける。寮長の気遣いもあり、岩田は闘病しながら高校野球をまっとうすることができた。
成長できる環境づくり
野球に集中して取り組める環境は、当時も今も大阪桐蔭の強みだ。レベルと意欲の高い選手たちが切磋琢磨し、彼らを引き上げる仕組みもある。シーズンオフになると、中村や藤浪晋太郎(阪神)、森友哉(西武)といったOBが母校に帰ってきて自主トレを行なうのはそのひとつだ。高校生は先輩を見て、自分も同じようになりたいと目標にできるメリットは計り知れない。
成長できる環境づくりは西谷監督が意識的に取り組んでいることで、岩田の頃から整えられていた。
「西谷先生の大学の先輩や、日本生命でやっていた人が来てくれて、『こんな練習をしているよ』『こういう気持ちでやっているよ』と会話のなかで各々が感じとれるようにアドバイスをしてくれました。考えてみたら今、プロ野球に行ったOBが自主トレで帰ってくるのと一緒のことですよね。生徒にとってはすごくいい。それも西谷先生の人脈ですね」
大阪桐蔭の選手たちはなぜ、上の世界で次々と活躍できるのか。その一因として、高校入学時から卒業後を見据えていることが挙げられる。岩田は身をもって体感したひとりだ。
「西谷先生は高校だけではなく、大学から先で選手が活躍できるように考えている人です。本当にすごいとしか言いようがないですね」
岩田は腰の故障で高校3年夏の大会では投げられず、1型糖尿病を理由に内定先の社会人チームから約束を取り消された。その悔しさをバネに、関西大学に進んで努力したことが阪神で長く活躍できた裏にある。
その礎になったのが、大阪桐蔭で学んだ「あきらめない気持ち」だった。
後編に続く>>
一部敬称略
プロフィール
岩田稔(いわた・みのる)/1983年10月31日、大阪府生まれ。大阪桐蔭高から関西大を経て大学・社会人ドラフトの希望枠で2006年に阪神に入団。3年目の2008年に10勝を挙げ先発ローテーションに定着。巧みな投球術で打者を翻弄し、2009年にはWBC日本代表メンバーに選ばれ、世界一に輝いた。