2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。※ ※ …
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第3回・土方英和(國學院大―Honda)前編
前回(山下一貴編)を読む>>
2020年箱根駅伝2区、先頭集団を引っ張る土方英和(当時國學院大)
昨年、びわ湖毎日マラソンで2度目のマラソン挑戦ながら日本歴代5位の2時間6分26秒をマークした土方英和。今年の東京マラソンでも2時間8分2秒と安定した成績を残しており、その走りと今後に大きな期待が寄せられている。國學院大学時代は3年時から主将を任され、箱根駅伝は4年連続で出走し、浦野雄平(富士通)とともに一時代を築き、多くの結果をチームに残した。今のマラソンにつながる國學院大時代の箱根駅伝での経験、そしてMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)、五輪について話を聞いた。
埼玉栄高校時代、土方の同期は、中村大聖(駒澤大―ヤクルト)や館澤亨次(東海大―DeNA)らのちに各大学の主将を務めるハイレベルの選手が多かった。彼らが次々と箱根駅伝の強豪校への進学を決めていくなか、土方は大学を選べる選手ではなかったという。
「駅伝シーズンになると貧血(の症状)が出てしまって1年と3年の時はまったく走れなかったんです。駒澤大や東洋大とか駅伝が強い大学への憧れはありましたけど、実績がなかったので自分に入れる感じがしませんでした。でも、箱根には出たかったので、どうしようかなと考えていた時、勧誘を受けた大学のなかで一番強かったのが、國學院だったんです」
國學院大は土方が高3の時の2015年箱根予選会は13位で本戦出場がかなわなかった。翌年、入部すると強いチームの雰囲気ではないことに気がついた。
「上級生の取り組みの姿勢がバラバラだったんです。蜂須賀(源・コニカミノルタ)さんや細森(大輔・YKK)さんは、競技への姿勢が真摯で走り込みが多く、尊敬できる先輩で、すごく勉強になったんです。でも、チーム内にはけっこうだらしない人もいたんですよ。そのため、チームが一体感に欠けるというか、そういうところが苦戦する要因だったのかなと思いました」
土方が大きな影響を受けたのが、蜂須賀だった。入学した翌月の5月、関東インカレが日産スタジアムで開催されていた時、「一緒にジョグしよう」と誘われ、みなとみらいまで走って戻ってきた。それをきっかけにロングジョグに誘ってもらえるようになった。
「蜂須賀さんから『ほかの人は長い距離を走るとケガしたりするけど、土方はケガしないからいろんなところに連れていける』って言ってもらえて、夏合宿もふたりで走りました。僕は、月間1100キロぐらいでしたが、蜂須賀さんは1200キロを超えていたと思います。さすがに前田(康弘)監督からは『蜂須賀と全部一緒に(練習を)するな。ケガしちゃうから』って言われました」
1年生の時から駅伝メンバーに
地道に距離を重ね、走力をつけることで土方は1年目から駅伝に絡むようになる。箱根駅伝の前哨戦ともいえる全日本大学駅伝で駅伝デビューを果たした。
「全日本は走りやすい5区を任せてもらったのですが、4位になり、自信になりました。箱根は、もう自分は主力だと思っていたので、出たいというよりも走らなきゃいけないと思っていました。実際、すごく調子がよく、このままいけば区間上位の走りができると思っていました」
土方にはそう思えるだけの理由があった。箱根予選会では細谷、蜂須賀に次いでチーム内3位、全日本は5区4位、その後の記録会も10㎞を29分13秒で走ることができて、いい流れができていたのだ。だが、12月に入り、メンバー発表がされる前の合宿中、アクシデントが起きた。
「捻挫をしたんですが、そのことは前田監督に言いませんでした。でも、『走りのバランスが崩れている』って言われたので、その時、初めて『痛くないんですけど、足をちょっとひねってしまって』と言ったんです。そうしたらめちゃくちゃ怒られました。けっこう重症だったんですけど、痛くないってずっと言い張っていましたね。最後、走れることは走れたんですけど、ケガする前の走りには戻せなくて......1回のひねりですべてがパーになってしまいました」
土方は3区に出走したが区間18位に終わった。チームは、総合16位になり、シード権を獲得することができなかった。この苦い経験を糧にして、土方は翌年の箱根で4区3位の好走を見せた。そして3年時には主将となり、エース区間の2区を任された。
「3年時の箱根は、浦野が山の5区と決まっていたので、長い区間を走れる僕は必然的に2区になりました。この時、2区7位という結果を残すことができたのは、すごく自信になりましたし、前田監督の信頼も勝ちとることができたのかなと思います」
3年時から4年にかけては、土方が一番成長したシーズンだった。
「箱根前の甲佐10マイルで46分50秒とそれなりに走れて、箱根2区を走って、学生ハーフで4位になって、大きな大会で結果を残すことで成長し、自信になりました。4年の時の関東インカレ2部のハーフは全然調子がよくなかったんですけど、メンバー的に勝たないといけなかった。一番の敵は山下(一貴・駒澤大・三菱重工)で彼に勝てればいいかなと思っていたら本当にふたりで優勝を争うことになって。最後はプライドじゃないですけど、絶対に勝たないといけないと思い、勝てたことでさらに自信が膨らみました」
4年時の箱根駅伝で総合3位に
4年時、箱根駅伝での目標は往路優勝、総合3位以内に決まった。「それができるだけのメンバーが揃っていた」と土方が言うとおり、浦野、青木祐人の4年生に加え、当時2年の藤木宏太(旭化成)、島﨑慎愛(4年)、1年に中西大翔(4年・主将)らがおり、目標は十分、ターゲット圏内にあった。
「その頃は青学大、東海大、駒澤大、東洋大が強かったので、これらの大学を破らないと3位以内には入れない。4つのうち、ふたつには絶対に勝つぞという雰囲気がチーム内にありました。個人的には、駒澤大には負けたくなかったです。中村(大聖)とは大学も近いし、学生ハーフで負けて日本代表を逃したので、チームでは勝ちたいという気持ちがすごく強かったです」
出雲駅伝優勝の勢いもあり、チーム状態が上向くなか、土方は2区8位にまとめ、往路は2位と躍進した。総合順位は青学大、東海大に次いで3位となり、國學院大史上最高の成績をおさめた。
「このレースが4年間のなかで、一番印象に残っています。1区の藤木が2位で襷をくれて2区を先頭で走れたのはすごく貴重な経験になりました。チームも往路優勝はできなかったけど、往路2位、総合3位に入れた。それは、同期らチームメイトに恵まれたからだと思います。浦野と青木がいてくれたからチームを引っ張ることができた。僕たちが結果を残すことで後輩たちもすごく頑張ってくれた。4年間で一番いいチームがつくれたと思っています」
土方たちの世代がチームに残したのは、箱根総合3位という結果だけではない。彼らの競技に取り組む姿勢や意識がレガシーとしてチーム内の隅々までに浸透したことが大きい。実際、現主将の中西は「土方さん、浦野さんの代が残してくれたものを自分たちは継承することで強くなれた」と語っている。
「後輩たちから、そう言われるのはすごくうれしいですね。僕たちの代と接点があるのは中西たちの代で終わってしまいますけど、当時の僕たちの走りを見て、入って来てくれたのが平林(清澄・2年)や山本(歩夢・2年)だと思うんです。自分たちの代が箱根駅伝は出場権を獲るのは当たり前、より上位で戦うというところに意識を変えられたけど、今の平林たちは、それが当たり前になっている。チームの意識、考え方が変わり、強い選手が入ってくるなど、すごくいい循環になっているなと思います」
土方は、学生最後のしめくくりとして2020年、東京マラソンに出走した。1年前から前田監督と相談し、準備を進めてきた結果、初フルマラソンでサブテン(2時間9分50秒)を達成した。箱根駅伝の経験は、マラソンという競技にどのようにつながったのだろうか。
「駅伝に向けて夏は走り込むじゃないですか。そこでマラソンができるぐらいの距離を踏んだので、初フルの時もそうですし、抵抗なく長い距離を走ることができました。マラソンは別物っていうよりも『これだけ走ってきたんだから』と自信を持って臨めたのは、箱根に向けてのあの夏の走り込みのおかげかなって思います」
蜂須賀仕込みの豊富な練習量と高い意識は、土方のランナーとしての礎になった。その強みを活かすべく、入社したHondaではマラソンで世界と戦う覚悟を決めた。
後編に続く>>ライバルとの差は「大学時代から開いたまま」