サッカーの取材は、試合会場だけがすべてではない。スタジアム周辺、また近くの国にも、材料は転がっているのだ。サッカージャ…

 サッカーの取材は、試合会場だけがすべてではない。スタジアム周辺、また近くの国にも、材料は転がっているのだ。サッカージャーナリスト・後藤健生は2010年、ワールドカップ取材のために南アフリカを訪れた。だが、「取材対象」は他にもあった。

■南アフリカの周辺国を訪ねる

 2010年の南アフリカ・ワールドカップの前後に、僕は南アフリカの周辺国を訪ねました。「アフリカ南部などなかなか訪れる機会もないだろう」と思ったからです(いや、本当は大会直前直後は航空運賃が高かったからです)。

 大会の開幕は6月11日でした。僕は6月4日に成田空港を出発してバンコクで乗り継ぎ、6月5日の朝の7時30分にヨハネスブルグのO・R・タンボ国際空港に到着。マプト行きの出発まで時間があったので、その間に南アフリカ滞在中に宿泊する予定だった「Big Tree B&B」(通称「大木旅館」=「放浪記」第46回「大木旅館の愛しのトリフィーナ」の巻参照)の下見をして、荷物の一部を預けてきました。

 そして、午後の飛行機でモザンビークの首都マプトに向かいました。

 なぜ最初の訪問国モザンビークを選んだのか? そう、あのエウゼビオの出身地を見たかったというわけです。

■大阪万博を訪れたW杯得点王

 1966年の年末に、ワールドカップ・イングランド大会の公式記録映画「ゴール」が公開されました。僕がサッカーを好きになってから最初の大会です。日本サッカー協会が入っていた東京・原宿の岸記念体育会館のホールで試写会のような催しがありましたが、その後映画館に通って何度も見た記憶があります。

 日本国内でやっているサッカーとは異次元の迫力あるプレー。そして、信じられないような美しい芝生。立錐の余地もない立見席……。すべてが驚異でした。

 そのイングランド大会のスターの1人が得点王になったエウゼビオ(ポルトガル)でした。大きく足を踏み込んで放つ強烈なシュートの迫力に圧倒されました。そして、エウゼビオが履いていた「プーマ」のシューズも印象的でした。当時の日本にはまだ「プーマ」のシューズは存在しませんでしたから、波のような白いラインの入ったそのシューズに憧れたものです。

 1970年にベンフィカが来日した時には、神戸で行われた第1戦の前に大阪・千里で開かれていた万国博覧会を見物に行ったら、ポルトガル館を訪れていたベンフィカの一行に偶然出会って、エウゼビオにもサインをもらいました。また、イングランド大会から20年後の1986年のメキシコ・ワールドカップの時には、アディダス主催のパーティーに行ったら、エウゼビオが一人でポツンと立っていたので、立ち話をした記憶もあります。エウゼビオは、神戸御崎球技場の芝生がとても奇麗だったことをよく覚えていました。

 そのエウゼビオが、モザンビーク出身なのです。

■心に残る「ロウレンソマルケス」の響き

 モザンビークは、当時はポルトガルの植民地(正確に言うと「海外領土」)でした。同じくポルトガル領だったアンゴラ出身の父親を持つエウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラは、1942年にモザンビークの首都「ロウレンソマルケス」で生まれ、同地にあったスポルティングの下部組織で育ったのですが、1960年に同じリスボンのライバルであるベンフィカが横取りするような形で契約してしまったようです。

 モザンビーク。そしてロウレンソマルケス……。そのエキゾチックな音の響きが心に残りました。将来、そんなところに行けるなどとはまったく思えない遠い異国でしたが……。

 だから、「大会前にどこかに行こう」と思ってアフリカ南部の地図を眺めた時、自然にモザンビークという文字が目に入ってきたというわけです。

 しかし、モザンビークは1975年の独立後、内戦が続いていた国です。果たして、安全に旅行できるのでしょうか……。

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