「日韓W杯、20年後のレガシー」#9 フローラン・ダバディの回顧録・第1回 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催か…

「日韓W杯、20年後のレガシー」#9 フローラン・ダバディの回顧録・第1回

 2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。

 フランス人のフィリップ・トルシエ監督が率いた当時の日本代表で、指揮官の手となり足となったのが、通訳としてピッチ内外でサポートしたフローラン・ダバディ氏だ。日本に長く住み、文化的な背景や風土を知り尽くしているが、20年前の日韓W杯はその後のサッカー界にどのような影響を与えたと感じているのか。本人を直撃し、運命的だった日本サッカーとの出会いについて振り返ってもらった。(取材・文=THE ANSWER編集部・谷沢 直也)

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 フランスの首都パリで生まれたフローラン・ダバディ氏が、「妙な巡り合わせ」によって日本代表を率いるフィリップ・トルシエ監督の通訳となり、27歳で日韓W杯のベンチに座る――。本人曰く「悪く言えば本当に無謀(笑)」と振り返る日本での挑戦のスタートから、どのような経緯でトルシエジャパンの一員となり、2002年大会までの道のりを全力で駆け抜けたのか。

 子供の頃から語学に興味を持っていたダバディ氏は、パリの大学で日本語を学び始めると、1994年夏に初来日を果たす。この時は茅ヶ崎にあったホストファミリーの家で3週間を過ごしているが、そこで運命的な一つの体験をした。

「国立競技場や平塚のスタジアムへ行って、Jリーグの試合を観戦したんです。ラモス瑠偉さんのいたヴェルディ川崎とサンフレッチェ広島の試合も観ましたね。僕は子供の頃からサッカーが一番好きなスポーツで、高校の時はプレーもしていたし、パリ・サンジェルマンの試合も(本拠地の)パルク・デ・プランスへ観に行っていました。サッカーが大好きな僕が言葉を学んでいる日本という国に、ちょうどサッカーブームが到来しているということで、感情移入がすごく簡単だったのかもしれません」

 欧州トップレベルのサッカーに少年時代から親しんできたなかで、初めて訪れた東洋の国で触れたJリーグのサッカー。誕生してわずか2年目のプロリーグは、若き日のダバディ氏を夢中にさせた。

「もう毎日がオールスターゲームみたいな世界。当時のヨーロッパサッカーはACミランの時代が終わり、1990年イタリア大会が“史上最高につまらないワールドカップ”と言われたように守備的で、ドーピング問題なども出ていた暗黒期。だからJリーグを初めて観戦した時、お祭りみたいな雰囲気の中でピッチ上の選手がドリブルを仕掛けて、(警告や退場の)カードも少なく、とにかくファンのためにプレーしていた。カズ(三浦知良)さんのまたぎフェイントもラモスさんのヒールパスも、ナイーブなものではあったけど、純粋に見ていてすごく楽しく、サッカーに対して少年時代の初心を取り戻せたように感じました。それに男女ほぼ平等でスタンドが埋まっていることや、選手とファンの距離が近いことも新鮮でしたね」

日本代表初合宿で見た夢のような光景

 Jリーグにすっかり魅了されたダバディ氏は、フランスに帰国後も当時ケーブルテレビで放送されていた試合の映像をチェックし、テレビゲームを通じて選手の名前も覚えていく。「マイナーなチームでも誰がいて、ディフェンスはこうで、システムはこうでと話せた」というほどのマニアックなJリーグの知識は、後に生かされることになる。

 大学で日本語を学んだダバディ氏は、日本での就職を熱望。大使館やフランスの高級ブランドなどで働く可能性を模索した末に、雑誌編集者として1998年に再来日を果たす。

「その時はこの出版社でしばらくやっていくと思っていたし、2年、3年でもし契約が切れても、また日本で就職活動をしようかなと漠然と考えていました」

 だが仕事が決まり、日本に来てからわずか3か月後、運命の歯車が回り始める。

 ダバディ氏は再来日を果たす直前、98年6月に開幕したフランスW杯で日本の新聞社のアルバイトをしていた。現地に来ていた日本人記者のサポート役をしていたが、その時に親しくなった1人の記者が、W杯後に日本代表監督に就任したフィリップ・トルシエの通訳を日本サッカー協会が探しているとの情報を、すでに出版社で働き始めていたダバディ氏に伝えたのだ。

「話をもらった時、僕は今、出版社の社員だし、通訳の仕事もしたことがない。でもなぜか根拠のない自信があって、とにかく面接くらいは受けてみようと。それでダメ元で履歴書を出し、12月に面接へ行ったんです」

 その席上で熱く語った“Jリーグ愛”は、面接官だった日本サッカー協会の大仁邦彌技術委員長(当時)を驚かせたという。無事に面接をパスしたダバディ氏は、99年1月に福島県のJヴィレッジで行われる日本代表合宿にテストを兼ねて呼ばれる。当然、本業は雑誌の編集者。入社したばかりの会社だったが、事情を説明して2週間の休みをもらい、日本代表監督の通訳としての第一歩を踏み出した。

「一言で言えば……本当に夢のようでした。当時はまだトルシエさんが完全に世代交代をしていない時だったので、私がテレビゲームの中で目にしていた一番上手い選手のカズさんとか、98年フランス・ワールドカップに出場した相馬(直樹)さん、井原(正巳)さん、秋田(豊)さん、中山(雅史)さんなど、その時のメンバーがほとんどいました。だから、すごく不思議な感覚でしたね」

初合宿の記者会見で味わったつらい経験

 不思議な縁によって巡ってきた日本代表での仕事。言葉にしがたい喜びと熱意が湧き上がる一方、通訳としての不安も抱えていた。

「大学でも一生懸命に日本語を勉強したから、日常会話は全然問題なかったし、読み書きもできたけど、現代的な日本語だったり、体育会系の皆さんが使うような言い回し、日本のサッカー用語などはまだ習得できていませんでした。サッカー雑誌やスポーツ新聞も読んでいたけど、あまりにも急に決まっただけに準備期間がなく、最初のJヴィレッジでの合宿は相当つらかったですね」

 特につらい記憶として残るのが、練習後に行われたトルシエ監督の記者会見だった。

「合宿中に会見が2回くらいあって、30人から40人くらいの記者が来たんです。普通の合宿で、これだけの記者が来るなんてフランスではありえない。満員の会見場でトルシエさんの隣に座り、僕が訳したわけですが、正直その時はすべての質問が理解できなかったですね。記者が言いたいこと、聞きたいことは分かっても、例えばトルシエさんの答えが答えになっていなくて不意に突っ込まれた時などは、僕が戸惑ってしまいました。自信がないという雰囲気を醸し出していたから、記者も協会の方も『大丈夫かな』という表情をしていました」

 合宿の最後、大仁技術委員長とトルシエ監督が“ダバディ通訳”の合否について話し合った。自身の将来について意見交換する2人の会話を、ダバディ氏本人が通訳するという奇妙な光景。大仁技術委員長は会見でのやり取りに不安を残すと指摘したものの、「サッカーの知識と運動量、そして一生懸命さ」が評価され、正式にトルシエ監督の通訳として採用された。

 選手に対し、練習中に派手なアクションを交えながら、時に怒声を上げて指導するトルシエ監督と、その動きに合わせて情熱的に指示を出すダバディ氏の姿は、新生日本代表の光景としてすぐに定着する。Jヴィレッジ合宿からの約3年半、2002年日韓W杯へ向けた激動の日々がスタートした。

(第2回へ続く)

■フローラン・ダバディ / Florent Dabadie

 1974年11月1日生まれ、フランス・パリ出身。パリのINALCO(国立東洋言語文化学院)日本語学科で学び、卒業後の98年に来日し映画雑誌『プレミア』の編集部で働く。99年から日本代表のフィリップ・トルシエ監督の通訳を務め、2002年日韓W杯をスタッフの1人として戦った。フランス語、日本語など5か国語を操り、02年W杯後はスポーツ番組のキャスターや、フランス大使館のスポーツ・文化イベントの制作に関わるなど、多方面で活躍している。(THE ANSWER編集部・谷沢 直也 / Naoya Tanizawa)