帝国の黄昏に見せた光 1992年、すでにランチア本体はWRC活動から撤退。後を託されたのはジョリークラブと、残された精鋭メカニックたちだ。マルティニカラーを纏って戦った“デルトーナ”は、ランチアに最後のマニュファクチャラーズタイトルをもたら…

帝国の黄昏に見せた光
1992年、すでにランチア本体はWRC活動から撤退。後を託されたのはジョリークラブと、残された精鋭メカニックたちだ。マルティニカラーを纏って戦った“デルトーナ”は、ランチアに最後のマニュファクチャラーズタイトルをもたらす。しかし、その日々も長くは続かなかった。WRCにおいて歩みを止めることは、すなわち後退することと同じ。翌93年シーズン、前年度王者のカルロス・サインツをもってしても、すでにデルタに日本車メーカーの勢いを止める力は残されていなかった。このパート2では、最後のデルタにかかわった様々な人物たちの回想を交えてお送りする。

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[Interview With Key Person]
クラウディオ・ロンバルディ

1987年、ラリーモンテカルロでデビューしたハッチバックの小柄なラリーカーは、度重なる進化を続け6年目のシーズンを迎えて衰えるどころか、さらなる力を見せつけた。細部にちりばめられた様々な工夫はランチアが積み重ねてきた勝利へのメソッドだ



インタビュー
ディディエ・オリオール
“真価”を認めさせた4年間


1988年、チェザーレ・フィオリオはある決断を迫られていた。ミヨーのわんぱく小僧か、マドリッドのマタドールか……ランチア帝国を率いる智将が選んだのは、ディディエ・オリオール。しかし、シエラでコルシカを制したばかりの若者への信頼は低くランチアでの4シーズンをかけて、彼はその実力を周囲に認めさせた。フランス・ミヨーの高台にある自宅で行われた今回のインタビュー。ランチア・ワークスからジョリークラブへの移籍を含めゆっくりと時間をかけて、すべての質問に答えてくれた


LANCIA DELTA HF Integrale
Results Encyclopedia 1992-1993
イラストで見る、ランチア・デルタ
HFインテグラーレ全記録。