引退直後に近鉄からコーチ就任要請も「引退してすぐというのは私のなかでは違った」 南海、近鉄で通算2038安打を放ち、名球…
引退直後に近鉄からコーチ就任要請も「引退してすぐというのは私のなかでは違った」
南海、近鉄で通算2038安打を放ち、名球会入りを果たした新井宏昌氏。野村克也氏、仰木彬氏という名将との出会いがキッカケとなり、野球人生は大きく変化していった。現役を引退してからも、2人の名将との繋がりは途切れることはなかった。本人の証言を元に振り返っていく連載の第4回目は「指導者人生のスタート、鈴木一朗との出会い」。
1992年に通算2000安打をマークした新井氏はこの年限りで近鉄のユニホームを脱いだ。仰木監督からも「もう辞めろ、いいんじゃないか」と、肩を叩かれて納得しての決断だった。ドラフトで指名してくれ、当時ヤクルトの指揮官だった野村監督にもこの年のシーズン中に報告した。
「引退のご挨拶に行くと『なんだ、辞めるのか。うちが獲ろうと思っていたのに』と仰っていた。自分の中では悔いはなかったのですが、今思うと、もう少し早く言ってくれればと(笑)。冗談でも、そういってもらえるのは嬉しかったですね」
近鉄の球団フロントは新井氏の引退と同時に指導者のポストを用意した。米国へのコーチ留学など魅力的な条件もあったが、これを断った。「引退してすぐコーチというのは私の中では違った。去年まで選手として接していた仲間に、いきなりコーチという立場で指導するのは嫌だった」。翌年からは球界の外から野球を見ることを選んだ。
仰木氏から1本の電話「来年からオリックスの監督になる。一緒にやるぞ、準備しておけ」
翌1993年はテレビや新聞で解説者や評論家を務めて12球団を見て回る日々を過ごした。すると、夏場を迎えた時に再び近鉄から「来季の打撃コーチをやってくれないか」とオファーが届いた。引退直後も指導者への思いは強かっただけに「もう、断る理由はなかった。お願いします」と快諾。ただ、この話は幻に終わり、新井氏が再び近鉄のユニホームに袖を通すことはなかった。
フロントの思いとは裏腹に、当時の監督だった鈴木啓示氏は広島で1軍打撃コーチを務めていた水谷実雄氏を招聘するプランを進めていた。チーム事情が変わることは日常茶飯事。フロントは一転して「すまん、この話はなかったことにしてくれ」と、新井氏に頭を下げたのだった。
だが、シーズンも終盤に差し掛かった頃に運命の歯車が再び動き出す。評論家として西武球場(現ベルーナドーム)を訪れた際に1本の電話がかかってきた。相手は新井氏の現役引退と同時に近鉄の監督を退任していた仰木氏からだった。
「来年からオリックスの監督になる。一緒にやるぞ。準備しておけ」
1994年の沖縄・宮古島キャンプで鈴木一朗の打撃に衝撃「これ誰?」
仰木氏は指導者経験のなかった新井氏を1軍打撃コーチに抜擢した。いきなりのポストに戸惑いもあったものの、新井氏は準備を進めた。そんな最中、シーズンオフに仰木監督が嬉しそうに話をする姿を、今でも鮮明に覚えているという。「ハワイのウインターリーグを視察してきた監督が『鈴木一朗という、若くてイキのいい奴がいる』と。その時はピンとこなかったのですが……」。のちの大打者となるイチロー(現マリナーズ球団会長付き特別補佐兼インストラクター)だった。
新井氏は同年に解説者として、鈴木一朗と出会っていた。グリーンスタジアム神戸(現ほっともっと神戸)を訪れた際にオリックスの大熊忠義打撃コーチから「新井に似た選手がいる。ちょっと見てくれよ」と言われ、バッティング練習を見守った。当時の印象を「まだ打撃フォームも振り子じゃなく、オーソドックスだった。打撃練習を見ても良い打球を飛ばしていたが、全てバットの芯で捉えることはなかった。仰木監督が楽しみにしている選手だったけど、半信半疑でしたね」と振り返る。
だが、翌1994年の沖縄・宮古島で行われた春季キャンプで、新井氏が描いていた印象は180度変わった。「これ誰?って(笑)。全く打ち方が変わっていた。振り子のようなフォームで打球の質も違う。半年でこれだけ変化する選手がいるんだと衝撃を受けました」。キャンプ初日。快音を響かせる背番号「51」の姿に目を奪われた。ただ、この時、目の前の高卒3年目の青年が大記録を次々に打ち立てることになるとは知るはずもなかった。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)