一向に上向かないパワーに、度重なるトラブル。HRD Sakuraからパワーユニットを受け取ってレース現場でそれを運営するホンダのエンジニアやメカニックたちは、肉体的にも精神的にも厳しい戦いを強いられている。英国ミルトンキーンズに駐在し…

 一向に上向かないパワーに、度重なるトラブル。HRD Sakuraからパワーユニットを受け取ってレース現場でそれを運営するホンダのエンジニアやメカニックたちは、肉体的にも精神的にも厳しい戦いを強いられている。英国ミルトンキーンズに駐在し、日本から遠く離れた世界各国のサーキットで現場運営を担う彼らの支えになっているのが「モーターホーム」だ。ヨーロッパラウンドの開幕となるスペインGPに、今年もホンダのモーターホームが帰ってきた。



前列中央がホーターホームを運営するシェフのデイブ・フリーマン氏 シェフのデイブ・フリーマンは、「ホンダ食堂」としてパドック中で知られた第3期ホンダのモーターホームを運営していた人物だ。あのミハエル・シューマッハもホンダの鮨を好んで取り寄せ、その噂を聞きつけた他のドライバーたちからの依頼も増えて、多いときには7人ものドライバーに和食を提供していたほど。そのくらいF1村に溶け込んでいた。

 2015年のF1復帰に際して、ホンダがそのフリーマンにモーターホームの運営をふたたび依頼したのも自然なことだった。

 2台のトラックを使い、横5.5メートル、奥行き15.5メートルのスペースに展開するホンダのモーターホームは、3階建てが当たり前という上位チームの豪華絢爛なそれに比べればおよそシンプルなもので、スペースも3分の1に過ぎない。



2階のオープンテラスには日本らしい季節を感じさせる桜も しかし、内部は日本人が落ち着けるよう工夫を凝らした作りになっている。1階にはリビング・ダイニングスペースとキッチン、多目的オフィス。2階にはリラックス兼ミーティングスペースと、スタッフの執務室、そしてオープンテラス。

 コンパクトなスペースにさまざまな機能が詰め込まれ、スタッフたちが休憩したり食事を摂ったり、はたまたミーティングをしたりゲストをもてなしたりと、幅広い用途で活用されている。

「モーターホーム自体はふたつのトラックで構成されています。1台がモーターホームのメインになるトラックで、上部がせり上がって2階建てになり、側面のパネルが跳ね上がってケータリングエリアの屋根になると同時に、その上はパティオになります。そしてもう1台のトラックでイスやテーブルなどすべての備品を運搬しますが、このトラックに大型の冷蔵庫を備えていて、ここに食材を保管しています。我々は和食を提供するために日本の特別な食材を必要としていますから、納豆や鰻、日本茶といったような各現地で仕入れることの難しいこうした食材は、ロンドンや日本の業者から入手してこの冷蔵庫で保管しているんです」(デイブ・フリーマン)



海鮮丼にみそ汁や天ぷらなど、海外とは思えないような和食のオンパレード そう、このホンダのモーターホームでは和食が振る舞われている。日本人にとってほっとする味であり、最近ではヨーロッパでも健康的で高級な料理として高い人気を誇ってもいる。マクラーレン・ホンダのドライバーたちも大のお気に入りで、特に昨年スーパーフォーミュラですっかり日本通になったストフェル・バンドーンは毎日のようにこのホンダのモーターホームで和食を楽しんでいる。

「ホンダスタッフに提供するのはもちろんですが、両ドライバーとも日本食が非常に好きで、特にストフェルは頻繁にここに食べに来ます。日本食は美味しいうえにヘルシーで脂肪が少なくて、バターやチーズなどの乳製品を使っていないこともあり、ドライバーのようなアスリートには非常に人気があるんです」

 彼らはどんな料理を好んで食べるのだろうか?

「ストフェルは和食がなんでも大好きなので、非常にイージーです。なかでも天ぷら、天ざる蕎麦が好きですね。いろんな日本の味を楽しめるように、天ぷらや鮨など少しずつ提供することもあります。フェルナンド(・アロンソ)は海老が大好きなので、海老の天ぷらや海老フライ、鮨や巻き寿司などを好んで食べますね。それと松阪牛や銀ダラも大好きなんですよ。ジェンソン(・バトン)も日本とのつながりが深くて和食をよく知っていますから、非常にイージーでした。鰻などが好きでしたね」



お寿司の卵焼きにはなんとホンダのマークが刻印されていた 約20名のホンダスタッフを中心に、ドライバーたちやマクラーレン側スタッフにも請われて振る舞うこともある。水曜の昼食に始まり、木曜から日曜までは1日3食のすべてをこのモーターホームで提供する。寿司職人の杉本淳さんが握る鮨は人気メニューの筆頭で、ドライバーたちもよく口にしている。

 冷蔵庫には日本茶やラムネ、リポビタンDなど日本特有の飲み物も常備されている。それだけでなく、仕事に追われて時間のないスタッフの昼食用に特製のお弁当も用意している。

「和食のお弁当はとても好評で、最初のころはマクラーレンのスタッフがあっという間に食べてしまってホンダのスタッフが食べられないということもよくあったので(苦笑)、今はそれぞれマクラーレンとホンダのロゴを貼ってホンダスタッフ用のお弁当がなくならないようにしているくらいですよ。日曜日のレース後には、撤収作業の合間に食べやすいようカツカレーを提供します。もちろん、ホンダに勝ってもらいたいという願いを込めてです」

 現在ではミルトンキーンズで現地採用したヨーロッパ人のエンジニアも数名帯同しているが、彼らも和食を楽しんでいる。朝食にご飯と納豆を食べるスタッフもいる。



マクラーレンのスタッフにも大好評な和食のお弁当 これだけの設備を整えるのは1日がかりで(それでも3日かかるトップチームのモーターホームに比べれば圧倒的に効率的だが)、フリーマンを含めて5名のスタッフと2名のトラッキー(運転手)はレース1週間前の日曜日に現地入りし、月曜に設営、火曜は清掃と食材の仕入れをして、水曜からの運営に備える。現場で働くスタッフたちに合わせて朝は早く、夜は遅い。非常にタフな仕事だ。

 それでもチームの一員として全20戦に帯同し、スタッフたちをホスピタリティで影ながら支える。そのことにフリーマンたちホスピタリティスタッフの面々は無上の喜びを感じている。

「日本の人とともに働くことは非常に楽しいですよ。日本人は正直で道徳的です。何かを約束すればそのとおりに実行してくれます。今はパワーユニットが苦境に立たされていて、エンジニアやメカニックたちがハードワークで苦しそうにしているのを見るのはつらいものです。長いタフな1日を終えて、彼らがここで和食を食べてほっとひと息をつく。それで少しでも彼らの疲れが癒やされるなら、こんなにうれしいことはありません。日本のお茶やビールを一緒に飲むこともあります。現場の厳しい環境のなかで働く彼らにとって、自宅のような場所になれればと思っています」



モーターホームに飾られた本田宗一郎の写真 モーターホームの中には、ホンダが初めてF1に参戦した1964年ドイツGPの写真や、偉大なるホンダの創業者、本田宗一郎の写真が飾られている。

 今のホンダはレースにかける情熱や根性を忘れてしまったのではないかと言われることもあるが、もしそうならこんなに苦しい思いをしながらレースを続けてなどいない。どんなに苦しくても、勝ちたいからこそ苦しみに耐えて戦い続けている。

 そんな彼らの戦いを、こうして陰ながら支える人々もいるのだ。