連載「世界で“差を生む”サッカー育成論」:指導者に求められる「ヒントを与える」姿勢 スペインサッカーに精通し、数々のトッ…

連載「世界で“差を生む”サッカー育成論」:指導者に求められる「ヒントを与える」姿勢

 スペインサッカーに精通し、数々のトップアスリートの生き様を描いてきたスポーツライターの小宮良之氏が、「育成論」をテーマにしたコラムを「THE ANSWER」に寄稿。世界で“差を生む”サッカー選手は、どんな指導環境や文化的背景から生まれてくるのか。今回はサッカーにおける指導者と選手の関係性について。高校サッカーの名将が語った「選手に教えるのではなくヒントを与える」という言葉を出発点に、日本サッカー史にその名を刻む松田直樹が、高みを求めて自ら成長し続けた姿に迫った。

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「サッカー指導者はどう教えるか、よりも、教えることを我慢できるか」

 育成について提唱するコラムで、その論では“全面降伏”に等しいのかもしれない。しかし、それは偽らざる真実である。

 個人競技、それも自身のタイムを競うスポーツでは、指導者の微に入り細に入りの教えがモノを言う。しかし、集団での競技で対戦相手と“やり合う”サッカーでは、そうした指導の効果は限定的と言える。道筋が確定したスプリント競技では、指導者のアドバイスを受けて自分と徹底的に向き合うことが大切になるが、サッカーでは常に人対人で複数の要素が絡み合い、コンビネーションを使って爆発力を生み出し、相手を欺いて裏をかいてプレーを成功させることに土台があるからだ。

 例えば、よく言われるように「ドリブルのためのドリブルは高いレベルでは全く通用しない」のである。

「サッカーは芸術と一緒。1+1=2じゃなくていいんです。指導者は教えるんじゃなくて、ヒントを与えてやればいい。あとは選手が自分の答えを見つけるものですよ」

 静岡学園高校で多くの選手を輩出した井田勝通監督(当時)は、かつてスポーツ誌でインタビューした時、そんな話をしていた。その理念が受け継がれているからこそ、今も変わらず、旗手怜央(セルティック)のような日本代表選手を輩出しているのだろう。

 自分で考えて選択肢を増やし、最善を選び取る。指導者の役割は、その鍛錬を重ねる環境を与えることにあるだろう。

反骨心と緊張感を持っていたから「成長できた」

 必然的に、子供自身の特性が大事になる。集団の中で自分を生かせるか。一日一日が、その学びだ。

<自らが決断し、一歩を踏み出す>

 その点で能動的アクションをできる子供は、爆発的な成長を見せることがある。

 例えば本田圭佑、長友佑都などは地元のユースで門を閉ざされても、県外の高校に進学し、そこから自ら道を作った。自分の足りないところや伸ばすべきところに徹底的に向き合う一方、挫折に対する耐性も養っていた。そしてそれは、プロで活躍する選手が通ってきた試練である。

「俺は負けるのが許せないし、だからこそプロの世界でも生き残ってこられた」

 Jリーグ史上最高のDFの1人である松田直樹は生前、そう語っていた。

「自分は運が良かった。高校の頃から、世界の強豪と戦う機会をもらって、そこで“少しでもミスをしたらやられる”という感覚を養えた。怖さを肌で感じて、ビビったこともあったけど、それよりもむかついたし、燃えずにはいられなかった。カヌー、ラウール、アネルカ、ロナウド……こいつらに負けねぇぞ、という反骨心と緊張感を持っていたから、成長することができたんだと思う」

 その言葉は、サッカー育成における真理だろう。自分が打ちひしがれるような敵を求めて食らいつき、トレーニングに打ち込み、不屈の再戦を挑む。一時の喜怒哀楽だけでなく、負けたくない、という思いを忍耐強く持ち、自らを追い込み、乗り越えられるか。

 少年時代から、松田はほとんど性質的にその才能に恵まれていた。

 松田は高校時代にFWからセンターバックに転向している。当初は、ヘディングの競り合い一つをとっても苦労したという。ジュニアユース代表候補に選ばれたが、素質が買われての選出だったことで、慣れないプレーが妬まれることもあった。周りからしたら、面白くなかったのだろう。しかし彼は全力で自分のやるべきことに集中した。

「他人を認めずにやってきた」

 松田はそう言っていたが、その偏屈さを厳しい鍛錬に置き換えることができた。そして日々の練習に必死に食らいつき、やがてディフェンスとしての感覚を身につけるようになった。もともとステップ、跳躍力、ターンの速さなどは非凡で、体躯や運動能力に恵まれていたのだ。

メッシも証言「誰かにサッカーを教わったことなどない」

 もちろん、指導者に教わったことはあるのだろう。U-17日本代表監督を務めていた故・小嶺忠敏氏のような理解者を得たのもあったかもしれない。コンバートのタイミングは運命的だ。

 しかし、すべてを好転させたのは、松田自身の天性と努力と巡り合わせによるものだろう。日々のトレーニングでポジションをつかみ、高いレベルで相手と競い、自分の足りない点を強化し、長所を伸ばした。それは教わってつかんだものではない。

「誰かにサッカーを教わったことなどないよ。自分で上手くなったんだ。当たり前じゃないか」

 かつてリオネル・メッシは、インタビューで堂々と語っていた。もちろん、「世話になった恩師は?」という聞き方だったら、何人か指導者の名前を出したかもしれない。ただトップレベルの選手には、誰かにサッカーを教わってなれるものではない。教わっただけの選手は、残念ながらたとえプロになっても早晩、立ち往生することになるだろう。

 むしろ非論理的な箇所に異を唱え、改善策を提示できるところまで考えるような選手が、時代を切り拓く。松田の盟友だった中田英寿は、まさに最たる選手だった。

「ようやくセンターバックの面白さが分かってきた」

 晩年、松田直樹は楽しそうにそう言っていた。亡くなる直前まで、彼はサッカー選手としての成長を求め続けていたのだ。(小宮 良之 / Yoshiyuki Komiya)

小宮 良之
1972年生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。トリノ五輪、ドイツW杯を現地取材後、2006年から日本に拠点を移す。アスリートと心を通わすインタビューに定評があり、『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など多くの著書がある。2018年に『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家としてもデビュー。少年少女の熱い生き方を描き、重松清氏の賞賛を受けた。2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を上梓。