3度目となる山登りに挑んだ宮下隼人(工4=富士河口湖 )は、最後の東京箱根間往復大学駅伝競走(以下、箱根)5区を深々とし…

3度目となる山登りに挑んだ宮下隼人(工4=富士河口湖 )は、最後の東京箱根間往復大学駅伝競走(以下、箱根)5区を深々とした一礼とともに締めくくった。主将として迎えたラストイヤーは必ずしも順風満帆とはいかなかったものの、常に周囲への「感謝」を忘れず、誰よりも直向きに努力を重ねてきた。ここから宮下の挑戦は世界へと移る。チームへの感謝の言葉、そして新たな舞台のスタートラインを前に、卒業後の意気込みを語る。


写真:東洋大学/月刊陸上競技


・宮下隼人(取材日・1月5日、聞き手・松本考史)


――箱根を振り返ってみていかがですか

チーム全体としては、目標として往路優勝を掲げていた中での往路9位に終わってしまって、個人としても力が全然振るわなかった、後輩たちに申し訳ない思いです。その中でも1〜3区の選手がいい流れを作ってくれて、4区の木本は初の駅伝のため、もう少し僕が4年生として走りやすいように声かけができたと反省しています。その中で僕が、本来であればしっかりと走っていれば、往路優勝自体は無理だったかもしれないんですけれども、少なくとも往路上位で終えることができたのかなと思っています。そこは僕自身の力が足りませんでした。「鉄紺の証明」というスローガンを掲げて、その鉄紺の強さを証明させよう、鉄紺の走りを証明させようという中で、復路の選手は本当に最後まで強さを証明させるような、スピリッツを忘れずに走ってくれて、復路2位と非常に頑張ってくれて感謝しています。


――5区のレースプランは

過去2回走っているので、経験を生かして前にいる大学を1つでも多く抜いて芦ノ湖にフィニッシュしようということを第一に考えて走っていました。


写真:東洋大学/月刊陸上競技


――5区の走りを振り返ってみて

箱根5区に臨むにあたって初心に返る、しっかりと練習を積むことであったり、フィジカルトレーニングと、そういったコツコツした積み重ねるものがこの1年足りていなかったと感じています。箱根は誤魔化しが効かない大会であることを改めて感じました。


――走っている際、酒井監督からはどのような声かけがありましたか

「最後の箱根だからこのままでは終われないだろう?」という声かけであったり、「走れない4年生の分も思いを背負って走らないとダメだろう?」と。そういう声かけがあった時には、最後だから頑張ろうという考えが出て、ここで僕自身が諦めるということは当然できませんし、チームにも迷惑をかけますし、僕自身の4年間にも、最後嫌な形で終わってしまので、最後という言葉を監督が使われたっていうのはとても印象に残っています。


――序盤の走りは

上りに入った時に思うように体が動かせない感覚があり、中間点過ぎたあたりから少しずつ体が動かせているなという感覚が戻ってきて、後半諦めないような走りができたのかなと思っています。


――フィニッシュ後の一礼にはどのような思いが

僕の父親も陸上競技の経験者で、僕が陸上を始めた際に父に指導され、必ず走り終わった後に礼をすることを習慣化していった結果です。今回礼をしたときに頭によぎったのは、この箱根という舞台を3回も走らせていただいたという監督に対しての感謝であったり、箱根自体に対しての、5区というコースに対しての感謝。また今大会もコロナ禍の大変な中開催していただいて、ご尽力いただいた方々への感謝の意味も込めて、また往路のゴールということもあるので、チームを代表してしっかりと感謝を伝えようという意味で礼をしました。


写真:東洋大学/月刊陸上競技


――復路の選手たちに向けて、何か声かけ・エールはありましたか

後ろは見ないで前のみを見て頑張っていこうということを復路のメンバーには伝えました。復路の選手が少しでもやる気を出してというか、気持ちよく走り出せるように心がけました。


写真:東洋大学/月刊陸上競技


――中学時代は野球部ということでしたが、なぜ陸上に転向しようと

父親の走る姿を見て始めました。


――東洋大学を選ばれた理由は

東洋大学選んだきっかけとしましては、僕が小学校6年生の時に当時(大学)4年生でキャプテンを務められていた2代目“山の神”の柏原竜二(H 23年度済卒)さんの走りを見てからです。野球をやっていた僕でさえもすごく印象に残っていて、闘争心あふれる走りに憧れであったりかっこよさを覚え、箱根を目指すなら東洋大学で走りたいと思うきっかけを与えてもらいました。


2年時には男鹿駅伝競走大会で2区区間賞を獲得した


――憧れである柏原さんと同じ5区を初めて走った際の心境は

キツさも当然あったんですけれども楽しさがとても大きかったです。当時は怖いもの知らずというか、失うものも何もなく、ガムシャラな気持ちがありました。


――区間新記録を出した2年時を振り返ってみていかがですか

当時、その前の全日本大学駅伝対校選手権大会(以下、全日本)でアンカーで優勝を狙える位置でいながら優勝どころかむしろ順位を2つ落としてしまいました。当時の相澤(R1年度済卒=旭化成)さんたち4年生に優勝を逃して申し訳ないなという気持ちがありました。全日本の借りを箱根で最後返して、往路うまくいかないところがあったんですけれども、しっかりと落ち着いて自分の走りをしよう、楽しんで走ろうという思いで走ったのを覚えています。


初の箱根路で5区の区間記録(1時間10分25秒)を樹立した宮下


――3年時の5区を振り返ってみていかがですか

3年時の5区としましては、当時の4年生・西山(R2年度総卒=トヨタ自動車)さんや、特に1つ上だったので、3年間とても親身になってご指導してくださり、最後は走りで恩返ししたいという思いがありました。先輩方への感謝を走りで体現しよう、恩返ししようという思いが強かったのかなと思っています。


――今季1年間を振り返ってみていかがですか

柏原さんがキャプテンをやられていた時は自らが走りでチームを引っ張って、当時“闘将”と呼ばれていた姿に憧れていて、僕自身も今年1年はそれを目指していたんですけれども、まったくそれとは反対、むしろ逆で、走れない主将となってしまいました。その中でも3年生以下が頑張ってくれて、こんな頼りない主将の下で僕を支えてくれた、僕の同期の仲間には感謝しかないです。僕自身が何もできておらず反省する1年だったと思っています。


――下級生に向けて何か思いは

来年の箱根では、今回の4位よりも3位以内を目指してほしいですし、総合優勝も目指していってもらいたいなと思っています。


――全日本のフィニッシュ後、涙を見せるシーンもありましたが

歴代の先輩方や後輩たち、またチーム全体に申し訳ないなと強く頭の中にありました。


――全日本の後、朝4時から練習されていたとのことですが

やったこと自体が間違っていたかどうかはわからないんですけれども、やっていなかったらもうちょっと悪かったかもしれないですし、少しでもチームが良くなったのなら良かったなと思います。


第51回全日本大学駅伝でもアンカーを務めた宮下(2年時)


――卒業後はコニカミノルタで活躍されるとのことですが、何か選ぶ際のポイントはあったのでしょうか

酒井監督が現役時代コニカミノルタで走られていて、コニカミノルタで学んだことが今の監督の指導にとても生きているということを聞いていて、今後も同じような指導のもとでやりたいなと思ったのでコニカミノルタさんを選びました。


――活躍されているOBからご自身も刺激を受ける部分はあるのでしょうか

相澤さんは2年前ともに練習した先輩ですし、また競歩の池田(R2年度済卒=旭化成)さんや川野(R2年度総卒=旭化成)さんは今も東洋大学の同じ練習環境で練習されていて、とても身近な存在でもあるので、そういった方々の普段の練習の取り組みというものがすごい近くにあって、他の人からしたらむしろ羨ましいぐらいの環境だと思います。


――池田選手や川野選手からは、どのような面で刺激を受けられていたんでしょうか

池田さんと川野さんは練習への準備というものがとてもすごいというか、時間をかけてやられているなという印象がありまして。僕が朝4時から練習を始めたということにもそれがつながったんですけれども、全体で決められた集合時間よりも前に来られていて、ストレッチであったりフィジカルといったものを入れて準備をしているという姿をこの1年見てきました。


――コニカミノルタでの抱負は

実業団コニカミノルタの方では、僕自身長い距離にチャレンジしてみたいなと思っているので、マラソンに取り組みたいなと思っています。しっかりとマラソンの下地を積んで、パリ五輪であったり、その先のロサンゼルス五輪の日本代表となって、未来の東洋大学の学生たちに勇気や、逆に影響を与えれるような選手になりたいと思っています。


2年時に出場した第98回関東インカレではハーフマラソン日本人トップに輝いた


――今後、東洋大はどのようなチームになっていってほしいですか

力がある選手たちも多いので、今年1年のチームよりも強いチームになってくれると感じています。僕たち自身が伝統を引き継いで次に移せたかどうかはまだわからないんですけれども、歴代の先輩方からつないでいただいた「その1秒をけずりだせ」というチームスピリッツを、やはり次の代、次の代へとつないでいけるようなチームになってほしいと思っています。


――東洋大の選手たちに向けて何か伝えたい言葉はありますか

今年1年、こんな不甲斐ない僕について来てくれてまずありがとうということを伝えたいです。卒業の時に充実してたなとか、楽しかったなと思って卒業してもらえたらなと思っています。


――監督に向けて何か伝えたい言葉は

監督にはまず僕を東洋大学に招き入れてくれて、4年間面倒を見ていただいてとても感謝しています。今年1年は主将という役職を与えていただいて、全然力もない僕だったんですけれども、色々なご指導をしてくださって、支えてくださったということにとても感謝しています。その感謝というのを本当は箱根で、結果として返したかったんですけれども、不甲斐ない走りになってしまったので、社会人になって実業団の方でしっかり結果を残して恩返しをしたいなと思っています。


写真:陸上競技部長距離部門


◆宮下隼人(みやした・はやと)

生年月日/1999・10・15

血液型/AB型

自身の強み/レースの安定感


PHOTO=長枝萌華

※弊部撮影写真はコロナ禍以前のものを掲載しております。