サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、ゴール裏で座…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、ゴール裏で座っている人たちの話。彼らが切り取る「芸術品」は、国境も時代をも超えていく。

■アルフィエリ一族の源流はどこに?

 父リカルドがディエゴ・マラドーナのデビューから引退までを取り続け、彼の代表的なプレー写真を数多く残したように、息子マウロリオネル・メッシのデビューからずっとこの天才を追い続けている。そしていつの日か、「孫」のマウロも祖父や父に劣らない「伝説の一枚」をものにするに違いない。そしてマウロの息子は…? ドン・リカルドが偶然に引き寄せられて『エル・グラフィコ』で写真を撮り始めた1936年以来、「アルフィエリ」の名前は、アルゼンチンのスポーツ写真と切り離すことのできないものになっているのである。

 ところで気になるのは、「ドン・リカルド」はどんなインスピレーションを受け継いできたのかということだ。彼の両親の職業などはわからないが、すくなくとも写真家ではない。だがひとつヒントになりそうな人物がいる。「ウサブロー・キクチ」。1903(明治36)年、岩手県遠野市生まれ。若いころに単身アルゼンチンに移住した人物である。

■農家からカメラマンへの転身

 彼は故郷で農業を学び、肥沃な大地といわれるアルゼンチンで農業をしたいという志をもった。父は彼に数百円(現在の貨幣価値では500万円以上)を与え、「地球の裏側」へと送り出した。最初はアルゼンチン北部のチャコ州に入植し、綿花の栽培を試みたが、干ばつと虫害ですべてを失い、ブエノスアイレスに出た。すさんだ生活のなかで、彼は故郷の父がカメラを趣味としていたことを思い出した。スペイン語はほとんどできなかったが『エル・グラフィコ』の写真部に押し掛け、暗室助手として働き始めた。1920年代の終わりのことである。

 やがてカメラをもたされ、サッカーの試合の取材に送り出される。そのときまで、ウサブローはサッカーがどんなものか、まったく知らなかった。見よう見まねでゴールラインの後ろに陣取った彼だったが、試合が始まるとピッチにはいり、選手といっしょに走りながら写真を撮り始めた。すぐにレフェリーが試合を止め、ウサブローに出ていくように命じた。

■脈々と受け継がれる「魂」

 やがて彼は『エル・グラフィコ』の代表的なカメラマンとなる。そして歴史に残る写真を撮る。1937年のある日、彼は自動車レースの取材に行った。このときも、彼は取材のルールなどおかまいなしで、いちばん迫力ある写真が撮れる場所を探し、コース内にはいりこんだ。そして彼の目の前で事故が起こった。ダニエル・ムッソが運転する車がバランスを崩し、45度傾いて右側の2輪だけでかろうじて走った。もうもうと上がる土煙、そのなかでドライバーと助手はパニックに陥らず、上半身を傾けてなんとか危機を乗り切ろうと人事を尽くしている。ウサブロー命の危険を冒して撮った一枚は、スポーツ写真史に永遠に残るものだった。

 ウサブローには2人の娘はいたが、息子はいなかった。スポーツカメラマンとしての彼の情熱とインスピレーションを受け継いだのは、このころに『エル・グラフィコ』のスタッフとなったドン・リカルドだった。世界のスポーツ史に刻まれるドン・リカルドとリカルド父子のスポーツカメラマンの源流がひとりの日本人にあることに、私は大きな感慨を覚える。

 ウサブローは祖国に帰らないまま、ブエノスアイレスで1980年に77歳で亡くなり、ドン・リカルドも1994年に82歳で帰らぬ人となった。しかしそのスポーツカメラマンとしての魂は、リカルドを、そしてマウロを通じて、いまも脈々と受け継がれている。

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