2021年限りで「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔が引退した。松坂の同学年となる1980年度生まれには、逸材が続々と出現…

 2021年限りで「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔が引退した。松坂の同学年となる1980年度生まれには、逸材が続々と出現。彼らは「松坂世代」という総称で呼ばれた。そんな松坂世代の一員である館山昌平さん(元ヤクルト)に、記憶に残る「松坂世代」を聞いてみた。




館山氏と小・中学生でチームメイトだった元横浜の三橋直樹

【松坂大輔の存在を知らなかった】

── 館山さんにとっても、松坂さんの引退には特別な思いがあるとお察しします。

「野球の実績があるのはもちろんのこと、人格者でもありました。彼のことを悪く言う人を見たことがありません。いたずら好きの一面もあって、愛される選手でした」

── 館山さんの野球人生をひもとくと、「松坂世代」という言葉が生まれるずっと前から、強烈な同級生と出会っていたことがわかります。

「三橋直樹(元横浜)ですね。彼は小・中学生の時のチームメイトで、小学校では6年間クラスが一緒の人気者でした。すごい野球オタクで、彼の影響で社会人野球や大学野球も見に行きました。彼がいなかったら、野球の魅力に気づけなかったかもしれません」

── 三橋さんも館山さんものちに投手としてプロ入りしますが、小・中学生の頃はともにエースではなかったそうですね。

「三橋は3番・サードのバリバリの主力で、2番手ピッチャーとしても簡単にノーヒット・ノーランをしてしまうようなすごい選手でした。でも、僕は小学4年までベンチで大声を出して応援するのが楽しかったようなタイプで......。この前、大学野球部の同窓会に行ったのですが、仲間から『ライパチを経験したのはタテ(館山)しかいないよ』と言われました」

── 小学校ではライパチ、つまりライトで8番バッターだったのですね。それでも、高校は強豪の日大藤沢に進学しています。

「中学の時はキャッチャーで、ピッチャーとしては練習試合の2試合目に1イニング投げるくらい。でも、日大藤沢の監督だった鈴木博識さん(現・鹿島学園監督)が練習を見に来られた時、『ピッチャーでとりたい』と言ってくださって。3年間で1回でもベンチに入れればいいやと思って、進学しました」

── 松坂さんの存在は知っていましたか?

「まったく知りませんでした。僕の中学時代のネットワークは厚木で止まっていましたから。高校1年生の時、tvk(テレビ神奈川)の番組で131キロを投げる1年生が取り上げられていたんです。当時の自分は120キロくらいだったので、『すごいな!』と驚いて。でも、シニア出身の同級生が『横高(横浜高校)に140キロを投げる1年がいる』と言っていて。僕は『いやいや、ウソだよ』と信じていなかったんですけど、それが松坂だったんです。でも、最初は松坂に興味が湧きませんでした。こっちはベンチ入りが目標なんですから(笑)」

── 当時の神奈川には鎌倉学園にも長田秀一郎さん(元西武ほか)、加納大祐さん(元松下電器ほか)のダブルエースもいました。

「ふたりとも球は速いし、(ヒジの使い方が)柔らかいし、ピッチャーらしいピッチャー。本当にすばらしい投手でしたね。2年秋の地区予選では鎌倉学園と同じブロックに入って、完敗しているんです。第2代表で出た県大会では決勝で横浜に負け、関東大会でも決勝で横浜に負けました。3回負けて甲子園(センバツ)に出るチームなんて、なかなかないですよね」

── 日大藤沢と横浜は翌春の関東大会を含め、公式戦で3回も戦います。そのすべてで松坂さんの投げる横浜に敗れるわけですが、実際に対戦してみてどうでしたか?

「鮮明に覚えているのは、『ボールって加速するんだな』ということ。彼のボールはある地点から加速していくような、そういう錯覚を覚えたんです。打席でもベンチで横から見ていても、今までの対戦相手では見たことがないボールでした」

── 春の関東大会での延長13回の死闘は、松坂さん本人も「高校時代のベストゲーム」と振り返っていると。

「松坂と『投げ合っている』という感覚はないですね。こちらは個ではなく、『松坂vs日大藤沢』という感じ。松坂がいいピッチングをしたから、自分も......と引きずられる感じはなくて、もう次のバッターのことを考えていました」

── これだけ対戦すると、自然と交流も生まれるのでは?

「試合前のキャッチボール中、遠投しているとお互いにセンターくらいに来るので、そこで少し会話することもありました。あとは練習が休みの日に、近くのバッティングセンターで鉢合わせすることもありましたね。ストラックアウトでパーフェクトを出すと名前が貼り出されるんですけど、『松坂』『館山』とよく並んでいました(笑)」

【フォームを真似た好投手】

── 春のセンバツで日大藤沢はベスト4に進出しました。近江の木谷寿巳さん(元楽天)、高鍋の矢野修平さん(元広島)、関大一の久保康友さん(元阪神ほか/現・兵庫ブレイバーズ)などプロに進む投手もいましたが、とくに印象に残ったのは誰ですか?

「3回戦で対戦した豊田西の松下克也くんです。投げ方がよくて、手足が長くて、フォークがいい。河原純一さん(元巨人ほか)と岩隈久志(元マリナーズほか)の中間みたいなイメージ。甲子園から帰ってきて、彼のフォームのマネをしました。それくらい格好いいフォームでした」

── センバツ後には、招待試合で強豪チームと戦うこともあったようですね。

「鹿児島実の杉内俊哉(元ソフトバンクほか)、川内の木佐貫洋(元巨人ほか)、沖縄水産の新垣渚(元ソフトバンクほか)を見ました。その時は自分がプロになれるなんて微塵も思っていませんから、ミーハー気分でドラフト候補を近くで見られるのがうれしかったですね」

── 3投手のなかで、とくにすごいと思った投手は誰ですか?

「渚と木佐貫でしょうね。自分が本格的にピッチャーになって2年しか経っていないので、スケールの大きいピッチャーほど目が行っていました」

── 木佐貫さんは東都大学野球リーグのライバルとして戦うことになります。館山さんは日本大、木佐貫さんは亜細亜大にそれぞれ進学しました。

「木佐貫はもちろんすごかったんですけど、手がつけられなくなったのは4年生になってからですね。見るからにフォークがよく落ちていて、迫力がありましたね」

── 木佐貫さんは同期の永川勝浩さん(元広島)とツインタワーと呼ばれ、活躍していました。

「永川はダイナミックで個性的なフォームで印象的で、フォークはカーブにしか見えないほど、大きく落下する球筋でした」

【和田毅のボールは怖かった】

── 大学3年時には館山さんは日本代表に選ばれています。松坂世代でとくに印象的な選手はいましたか?

「早稲田大の和田毅(ソフトバンク)のボールは怖かったですね......。じつはこの時、キャッチャーの数が足りなくて、僕は中学時代に経験があるのでブルペンキャッチャーをやっているんです。普通のピッチャーならシュート回転が見えて、『こんなラインで来るな』とわかるもの。でも、和田のボールは真っすぐすぎて、『ドーン!』とくる。このストレートがとにかく怖かったですね」

── 日本大のチームメイトには村田修一さん(元巨人ほか)がいました。

「村田は1年生の時に寮で同部屋だったんです。彼はすぐ試合に出ていて、僕はスタンドから応援していました。でも、1年生としての仕事を一緒にやっていたこともあって、寝坊がちで人間味のある村田の姿を見ていたので、親近感を持っていました」

── プロ入り後はともにセ・リーグで対戦する機会も多かったですが、村田さんとの対決はどうでしたか?

「大学での4年間は、僕にとって野球が一番うまくなった時期でした。村田はうれしい思いも悔しい思いも共有した仲間ですから、手の内は全部バレているだろうなと思いながら投げていました。いつか一緒に野球をやれたらいいなと密かに思っていたんですけど、オールスター戦(2008年)で1回だけ僕が投げて、村田がサードに入ったことがあったんです。あれはよかったですね」

── プロ入り後に対戦した松坂世代の選手で、印象深い選手は誰ですか?

「広島の東出輝裕、梵英心の1、2番はイヤでした。梵には2打席連続ホームランを打たれたこともあって相性が悪かったし、東出も塁に出すとやっかいだなと。東出はインコースにカットボールやフォークを投げると、見分けがつきにくいのか『今の何?』っていう表情でこっちを見てくるんです(笑)」

── 自身が打席に入ってみて、すごかった投手は誰でしょうか?

「うーん、阪神の藤川球児の打席には立ってみたかったですけど、機会がなかったんですよね。すごいと思ったのは、中日の小林正人ですね」

── ちょっと意外な人選です。左の技巧派サイドスローでした。

「あれはビックリしました。セカンドがバックホームするくらいの角度から腕が出てきますからね」

── 最初は松坂さんに興味が湧かなかったとおっしゃっていましたが、自分も「松坂世代」だと実感できたのはいつ頃だったのでしょうか。

「プロ1年目(2003年)に昭和55年会(1980年度生まれのプロ野球選手の会)に出た時ですかね。今まで自分が見てきた松坂世代の選手たちが、"タメ口"で話してくれる。その時ですね。『この世代として認めてもらえたんだな』と思えたのは」

── あらためて松坂世代への思いをお聞かせください。

「僕は小学生の頃から、周りがすごいことに気づかないうちに自然と自分のレベルも押し上げてもらえていたのかな......と思うんです。身近にうまい人がいて、その人のマネをして、どんどんうまくなれた。もし三橋と出会っていなくて、日大藤沢に進んでなくて、松坂世代じゃなかったら、ひとりではプロまで絶対にたどり着けないです。小学生時代にライパチだった者として、そこは強調しておきたいですね」