シダックスで野村克也監督付きマネジャーとして、常に野村氏と行動を共にした梅沢直充さん。第二回ではシダックス時代・野村監督…
シダックスで野村克也監督付きマネジャーとして、常に野村氏と行動を共にした梅沢直充さん。第二回ではシダックス時代・野村監督のエピソードを伺った。第三回はその後の人生と将来のビジョンについて

<第二回はこちら>
――野村監督がシダックスを離れた2006年、梅沢さんは何をされていたのでしょうか?
梅沢 直充(以下 梅沢):チームマネジャーに戻りました。そして廃部後、07年にプロ野球・楽天に入団しました。
――おっ、華のプロの世界へ。それはどういった経緯で?
梅沢:06年の廃部後、野村さんから「仙台に来るか?」と連絡がありました。シダックス3年間尽くした監督からの声でしたから、断る理由はありません。それで07年のシーズンから楽天にお世話になることに。田中将大投手や嶋基宏捕手らと同期入団です。住んでいたのは仙台駅東口と楽天スタジアムの中間ぐらいのところで、球団事務所までは自転車で通勤していました。
私の肩書は「サブマネジャー兼監督付」で、一軍の行動全てに帯同。車の運転や遠征時のかばん持ち、広報担当まで監督の身の回りのことは何でもしました。シダックス時代とやる事は一緒ですね。
――シダックスの経験があったから、即戦力でしたね。
梅沢:そうなんですけどね。でも、一年で辞めたんですよ(苦笑)。
――えーっ!?どうしてですか??
梅沢:なんか疲れてしまってね。廃部の事後処理が終わらないまま、後ろ髪を引かれる思いでバタバタの中で仙台に行って、入団後もいろんなことが重なって。監督に「お前最近元気無いなぁ」と見抜かれて。監督とじっくり話した末に、退団することにしたんです。
――いままでのエピソード聞いていると、お疲れになるのもよくわかります・・それで退団後は?
梅沢:以前から気にかけてくれていた私の友人から声がかかり、彼が立ち上げた映像制作会社の経営に携わりました。CSの鉄道番組や企業のプロモーションビデオなどを制作。企画、ロケ、編集、テロップ入れ、ナレーション収録など映像制作のいろはを全て学び、また経理を担当していました。
でも、そこは社員4人のベンチャー企業。業界内での競争も激しく、売上によっては社長の報酬が出ない月があった。社長は従業員に優先的に給与を払い、本人は無報酬。あるとき、そんな状態が3ヶ月ほど続いたことがあって。彼は元々メジャーな制作会社から独立した人。映像制作のプロが報酬を貰えず、私みたいな素人が給与を貰うのは申し訳ないと感じ、「私が辞めることで社長に報酬が入るなら、その方がいいのではないか」と思い始めました。「オレもいらないよ」と言ったのですが、「ダメダメ。生活があるでしょ」って。優しい社長だったなぁ。
09年1月、近況報告を兼ねて志太会長(当時)の元を訪れました。志太会長は中学生野球(当時K-Ball)の連盟会長をしていたので「野球のことで何かお手伝いできることがあれば」と申し出ました。そうしたら志太会長から「今のところで頑張れ!」。崖から突き落とされた感覚でした。
家路についた頃、会長室長から連絡があり「野球の仕事ではないけど、元気の良い部署がある。そこで良ければどうか?野球だけではダメだ。会社の仕事も覚えて、うち(シダックス)の戦力になってくれれば、と志太会長が仰っている」と。私は感謝の思いでいっぱいで「ありがとうございます」と、電話口で深々と頭を下げました。
――聞いているだけで目が回りそうな、本当にジェットコースターみたいな人生ですね。野球部や監督付きのマネジャーから、全く畑違いの映像制作業界。そしてまたシダックスに戻り。
梅沢:シダックスに戻った後は、企業や自治体の各種業務や公共サービスなどを受託運営する事業子会社にいて、1年経った後、志太会長の元に呼ばれました。 行政、政治、地域活性化など、志太会長が手掛ける様々な社会貢献事業に携わり、現在は秘書をしています。
――野村さんとか志太さんとか、これだけの大御所に呼ばれる梅沢さんって、何か持っているんですか??
梅沢:何も持ってないですよ(笑)。

――ところで梅沢さんにとって野村克也さんはどんな存在でしたか?
梅沢:一言で言えばお父さんみたいな存在ですね。野村監督は私の父の2つ下。父親と年代が近いこともありました。女性との接し方とかも教わりましたね(笑)。
――野村さんと記憶に残るエピソードはありますか?
梅沢:烈火の如く怒られたことがあります。監督は付き合いで銀座のクラブにたまに行っていました。私は運転手としてお連れするのですが、「お前も来い」といって何度かご一緒させて頂いたことがありました。監督は元々お酒が飲めず、銀座では烏龍茶。私も運転なので烏龍茶。日本一高価な烏龍茶ですよね(笑)。私が監督に付いて2年目だったか、監督に慣れてきた頃、やらかしてしまって。ちょっとだけ集中力が途切れ、女性と談笑してしまったんですよ。
そうしたら翌日の朝、グラウンドに向かう車内で「昨日、女の子と何を話していた! 銀座はお前が遊ぶようなところではないんだ!」と怒鳴られて。私は以前、先輩から銀座で御馳走になったことがあり、「オレはあのとき、どのくらい散財かけてしまったのだろう?」と気になっていました。それで「銀座っていくらくらいで飲めるの?」と聞いただけだったんです(苦笑)。それを監督は「梅沢が銀座で遊ぼうとしている」と思ったのでしょう。監督の凄いところは、私を怒鳴りつける前に、その女性に「梅沢と何の話しをしていたのか?」取材していたこと。店から帰る車中では、私に何も聞いてこなかった。
――まだリサーチする前でしたからね(笑)。野村さんはキャッチャー時代にもありましたよね。銀座や新地で常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れて、バッターボックスでささやいて翻弄させる「ささやき戦術」。
梅沢:監督は帰宅してから店に電話して裏を取った。私も一応言い訳をしたんですが、「オレは昔から温厚で知られているんだ。そのオレがこれだけ怒るんだから、どういうことか分かるか!」と聞く耳持たずもうカンカン。私が横道に逸れるのでは?と思い、それを必死に防いでくれたのでしょう。いま思うと、愛の一喝だったんでしょうね。
――野村さんから愛されていたんですね・・現在はシダックスの志太勤・取締役最高顧問の元で12年間勤務しています。会社のトップの方を支えてみていかがですか?
梅沢:会社を経営するのはこんなに厳しさを持ってやっていかねばならないのか、と痛切に感じます。とにかく神経を研ぎ澄まして、常に厳しい姿勢で社員や物事に対応している。要は「一寸先は闇」、少しでも気を緩めたら会社がどうなるか分からない。そういう危機管理を絶えず考えているからだと思います。
志太最高顧問からは「何事も”できる”と思って真剣に取り組め!」「物事は準備で80%決まる!」ということを学びました。これは、野村監督にも共通しているんですよ。「この程度でいいや」とか「これ以上は無理だろう」という妥協や諦めが一切ない。物事を達成するまで全てにおいて真剣勝負なんです。また、準備についてもそう。「野村野球は準備野球」と同じことを言っている。
――やっぱり成功者と言われる人はものすごいパワーや感性をお持ちなんですね。そんな方々の側にいる梅沢さんも気が休まる時がないのでは?
梅沢:よく言われるんですよ、「ウメちゃんってストレス耐性あるよね」って(笑)。特にストレス発散の術を持っているわけではないんですけど、噛み砕いて飲み込んだら意外と忘れるのも早いんですよ。「ハイ、つぎ!」と(苦笑)。
――それはいつくらいからですか?
梅沢:大学のマネジャー時代に鍛えられたのかな。とにかくいろんなことが起きるから、一つ一つのことを考えていられない。前に進まないといけないですから。怒られても次直せばいいと思って切り替える(笑)。
――分かりました!梅沢さんが持っているもの。「ストレス耐性」だったのですね!
梅沢:まぁ、そういうことにしといてください(笑)。
――いま梅沢さんは野球とはどういう関わりをされていますか?
梅沢:志太最高顧問が会長を務める日本中学生野球連盟の理事兼事務局長をしています。軟式の中学3年生が高校で硬式を始めるまでの移行期間である11月に、各都道府県の選抜チーム48チームによる全国大会を静岡県の伊豆で開催しています。中3の11月、しかも県選抜だから、レベルはかなり高いですよ。千葉ロッテの佐々木朗希投手や阪神の森木大智投手など、ウチから巣立ったプロ野球選手は70名近くいます。また、2年に1度、「U-15侍ジャパン」を編成し、国際大会の運営をしたり、海外に派遣したりしています。
あとは、学童野球ですかね。私の小1の息子が軟式野球を始め、地元・横浜市のチームに入部しました。私も「パパコーチ」として毎週末はグラウンドで奮闘しています(笑)。
――野球とはこれからもずっと切れないですね(笑)。将来、梅沢さんは野球界でどんなことをしていきたいですか?
梅沢:日本の野球界全体をマネジメントしたいなぁ、と夢見ています。学童、中学、高校、大学、社会人、プロ、侍ジャパン、そして世界。それぞれのカテゴリを経験させて頂いて、良い取り組み、直面した困難、これからの課題など、いろいろ体験したこと、感じたことのすべてを、未来の野球界のために生かしていければ、と思っています。そして、野球を愛する多くの皆さんと一緒になって、野球界の「好循環現象」を創り上げていきたい。
例えば、将来、日本球界の象徴みたいな人が中心にいて「野球界、こうしていきましょう!」と号令をかけたら、みんなが賛同して「そうしよう!」と同じ方向を向く。その人は誰なのかなぁ。そして私は、その人を支える官房長官みたいなね(笑)。あくまで夢ですよ?夢。
「ノムラの考え」の中に、実は野村監督が野球界の現状と将来を憂いている部分があります。「野球界は団結しなければならない。野球界に旋風を巻き起こす風雲児が、早く必要です。日本国内は勿論のこと、野球がもっともっと世界に広まり、発展するよう願っております。」と書いてあるんですよ。その監督直筆の原稿をパソコンに打ち込みながら「風雲児になりたい!!」と心の中で叫びました。これは、監督からの私に対しての「遺言」だと、勝手に思っています。
<おわり>
<プロフィール>
梅沢直充 / うめざわなおみつ
東京都中野区生まれ。中学1年で野球を始め、日本大学在学時にマネジャーとなる。
シダックス入社後、野球部のマネジャーとなり、野村克也監督時、監督付きマネジャーとして常に行動を共にする。その後、野村氏が楽天監督時にもマネジャーを務める。
現在、シダックス株式会社 最高顧問室 (志太勤・取締役最高顧問秘書)。
一般財団法人全日本野球協会 国際事業委員会 ラバーボール普及検討部会委員。
一般財団法人日本中学生野球連盟 理事 事務局長。