サッカーを見ていると、表面上の現象だけではなく、その根底を知りたくなる。根底を知ると、歴史を学びたくなる。サッカーを追…

 サッカーを見ていると、表面上の現象だけではなく、その根底を知りたくなる。根底を知ると、歴史を学びたくなる。サッカーを追い続けるサッカージャーナリスト・後藤健生は、深く日本サッカーの源流を追っていく。

 古橋亨梧はワールドカップ予選の中国戦で負傷。所属のセルティックに戻ったものの、当面は欠場となる見込みだ。約1か月戦列を離れることになりそうだという。

 加入してすぐに結果を出して大いに期待を集めていただけに、アンジェ・ポステコグルー監督にとっても、セルティック・サポーターにとっても、そして何よりも古橋本人にとって残念な事態となった。

 日本代表も、10月の大事な連戦は古橋という重要な駒を欠いたまま戦うことになりそうだ。

 さて、前回はスコットランドのサッカーが、世界のサッカーの歴史の中で果たした重要な役割について書いた。つまり、グラスゴーのクイーンズパークFCが1866年のオフサイド・ルール改正を利用してパスをつないで攻める「パス・サッカー」というものを“発明”し、それがスコットランドのサッカー・スタイルとして定着し、世界各国に大きな影響を与えたのだ(その一例としてアルゼンチンのロサリオのサッカーの歴史を紹介した)。

 そして、日本のサッカーも、驚くべきことになんとその黎明期からスコットランドと接点があったのだ。

■サッカーを伝えた「お雇い外国人」

 1863年にロンドンでフットボール協会(The Football Association=FA)が創設され、共通ルールが制定された。それが、「アソシエーション式フットボール」、つまりサッカーだった。

 ちょうど同じころ、日本は幕末維新の動乱期を迎えていた。徳川幕府は米国を皮切りに修好通商条約を締結し、1859年には横浜などを開港。横浜の居留地には外国人商人や軍人が居を構えるようになった。1867年には徳川慶喜が朝廷に対して大政を奉還。250年ほど続いた徳川幕府が瓦解し、薩長など西南雄藩を中心とした新政府が樹立された。

 新政府にとって急務だったのが日本の近代化だった。そのため、新政府は各国からさまざまな分野の専門家を招聘する。彼らを「お雇い外国人」と呼ぶが、ちょうどJリーグができてすぐに大勢やって来た外国人指導者たちのようなものだと思っていい。

 喫緊の課題は軍の近代化だった。徳川幕府の時代以来、江戸時代から国交がある海洋国家オランダの軍人が日本の海軍士官の教育を担っていたが、新政府は当時世界最強の海軍力を誇っていた英国から専門家を招聘することを決めた。東京の築地に設けた海軍兵学寮(後の海軍士官学校)での海軍将校の育成を任せることになったのだ。

 こうしてやって来たのが、アーチボルド・ルシウス・ダグラス少佐が率いる英国海軍の顧問団だった(ダグラスは、日本に着任してすぐに中佐に昇進したので、以下「中佐」と表記する)。

■「競技開始」は1873年か

 ダグラス中佐はそれまで座学が中心だったカリキュラムを改めて、日本人学生(海軍の幹部候補生)たちに体育教育を課した。そして、体操やボートなどとともにクリケットやラウンダース、フットボールといったボールゲームも取り入れたのだった。レクリエーションにも、ビリヤードやボウリングを奨めたという。

 ダグラス顧問団が教育を始めたのは1873年の秋だった。当時は「フットボールは冬のスポーツ」という意識が強かったから、日本人学生たちがフットボールをプレーしたのは1873年から翌年にかけての冬だったはずだ。

 ただし、ダグラス中佐自身がフットボールを教えたわけではない。ダグラスはカナダのケベック州生まれのスコットランド系英国人で、14歳で海軍に入隊したいわゆる「たたき上げ」の軍人だった。少年時代、自然に囲まれたケベックではカヌーに乗ったり、キャンプをしたりという野外活動に明け暮れていたというから、英国本国出身者のようにフットボールに親しむ機会はあまりなかったかと思われる。

 ダグラス顧問団のうちの誰かが体育教育を担当したのだろうが、それが誰かという情報はない。

 一方、同じ1873年から74年にかけての冬、工部省工学寮でもフットボールが行われていた。工学寮(東大工学部の前身)は建築家を育てるために新政府が設立した学校だった。

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