カズといえば「11」番が代名詞。ところが1990年、ブラジルに渡ってサントスFCでプレーしていた三浦知良は、読売クラブ(…
カズといえば「11」番が代名詞。ところが1990年、ブラジルに渡ってサントスFCでプレーしていた三浦知良は、読売クラブ(現在の東京ヴェルディ)に移籍して、背番号「24」をつけて1年間、日本サッカーリーグでプレーすることになった。そして、これにがまんできない男がいた。1982年ワールドカップ・スペイン大会で、アルゼンチンのテクニシャンにして頭脳派としても知られるMFオズバルド・アルディレスは、フィールドプレーヤーながら背番号「1」をつけてプレーした——。サッカージャーナリスト・大住良之の「知れば知るほど奥深い」背番号の物語の完結編。
■Jリーグの先発選手は「1番」から「11番」
「先発選手の背番号を1から11にすべきだ」
Jリーグが始まる前、私はひとつの提案をした。
Jリーグに先立つ日本サッカーリーグ(JSL)では、背番号は「固定制」だった。1960年代の日本のサッカーでは、背番号はポジション名と同義語だった。WMシステムでは個々に明確なポジション名が略称(ライトバック=RB)などとともにあった。1960年代に急速に広まった4−2−4システムでは多少のばらつきはあったものの、ほぼポジションごとに決まった番号をつけていた。
しかし日本リーグでは、1965年のスタートの年から選手は決められた背番号をシーズンを通じて付けることにした。JSLの運営に当たっていた日本サッカー協会事務局の中野登美雄さんと佐藤政孝さんが、ジャーナリストの牛木素吉郎さんとともに編んだ「日本サッカー・リーグ小事典」(『JSL年鑑』の1975年版から掲載)によれば、「プログラムにのっている番号でみれば、すぐ分かるわけだ」という理由による。
「フルバック」(サイドバック)として日本代表で活躍していた古河電工の宮本征勝さんは、背番号8をつけてプレーし、「エイトマン」と呼ばれた。1960年代に日本全国の少年たちを熱狂させたテレビアニメのヒーローの名前である。ちなみに、このチームのゲームメーカーだった八重樫茂生さんは16をつけた。当時の日本で「背番号16」と言えば、プロ野球のジャイアンツで「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治さんである。
■三浦カズが「24」をつけるなんて
JSLの「固定背番号制」は、世界のサッカー界に例があったわけではなく、いわば時代を30年以上も先取りしたものだった。アイデアは、プロ野球をヒントにしたものだった。JSLは当然アマチュアリーグだったが、観客数を増やすには選手を覚えてもらわなければならない。たとえば八重樫選手の名人級のゲームメークを楽しみにしているファンが、ある試合では8番をつけ、別の試合では10番をつけているのでは混乱する。だからポジションには無関係にして、個人の番号としたのだ。
しかし私はカズ(三浦知良)が「24番」をつけてプレーしなければならないというような事態にがまんができなかった。1990年、ブラジルのサントスFCでプレーしていたカズが帰国し、読売クラブで登録された。おそらく、チームの背番号が決まり、ユニホームが発注された後に契約がまとまったためだろう、カズの背番号は24と発表された。そして1シーズン、彼はその番号のままプレーした。22試合中18試合に出場しながら3得点しかできなかった理由のひとつが、背中が重かったことにあるのではないかと思ったほどだ。
ちなみに、この年の読売クラブの背番号11は武田修宏だった。翌1991/92シーズン、武田には9が与えられ、カズは背番号11となった。カズは日本代表を牽引する選手となり、「背番号11」とともにJリーグの熱狂を牽引する時代の寵児となった。
1990年代のはじめ、欧州のトップリーグでは先発する選手が1番から11番をつけるという形が常識だった。当時固定番号制を採用していたのは、オランダ、フランスなど、どちらかといえば「弱小リーグ」ばかりだった。1970年に固定番号制を始めたオランダのアヤックスで「背番号14」を世界にとどろかせたヨハン・クライフは、1973年にスペインのバルセロナに移ったとき、その番号をつけることを許されず、仕方がなく背番号9でプレーした。
冒頭の私の提案は、そうした世界の常識の「虎の威」を借りたものでもあったためか、驚いたことに(自分で提案したのに採用されて驚くのは、そうしたことが滅多にないからだ)、Jリーグで採用されてしまった。