「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#4「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる多様な“見方”を随時発信する…

「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#4

「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「オリンピックのミカタ」と題し、実施される競技の新たな知識・視点のほか、平和・人権・多様性など五輪を通して得られる多様な“見方”を随時発信する。今回は1996年アトランタ五輪に競泳で出場し、引退後は国連児童基金(ユニセフ)の職員として長く活動している井本直歩子さんのキャリア。前編は五輪挑戦を3度経験した競技人生で得たものについて。(文=長島 恭子)

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「私が目指すのは、男性らしさ、女性らしさにこだわらないフラットな社会、そしてスポーツ界です。ただ日本では、ジェンダーについての伝統的価値観が特に根強く、概念そのものが伝わりにくいと感じています。課題は多岐にわたりますが、あらゆる施策にジェンダー平等を重視する国際機関にいた経験が、アドバイザーを務めるうえで活きています」

 今年2月、東京五輪・パラリンピック組織委員会はジェンダー平等推進チームを設置。そのアドバイザーにユニセフの教育専門官、井本直歩子さんが就任した。

 井本さんは、かつて竸泳選手として、アトランタ五輪に出場。競技引退後、国会議員秘書やスポーツライターを数年経験した後、英国の大学院を卒業。その後約18年間、紛争地や災害被災地を転々とし、スポーツ界とはほぼ無縁の人生を歩んできた。

「不思議なことに、今は現役時代や20年前少し働いていた頃のつながりでほとんどが動いています。現在、ジェンダー平等やSDGsといったグローバルの課題に取り組んでいますが、広がっていくのはスポーツ界ばかりで驚いています。アイデンティティ・クライシスといいますか、私はこんなにもスポーツ界の人だったのか、また、スポーツに戻ったのか、という気持ちです」

 3歳のとき「ドボンとプールに飛び込まされた」井本さん。すぐに頭角を現し、幼稚園の卒園文集には『オリンピックで金メダルをとる』と書いた。

「生まれたときから運動神経がよくて(笑)、男の子にも負けなかった」井本さんは、小学6年時にジュニア五輪で学童新記録を更新。さらに同年、日本短水路選手権で3位入賞。多くの五輪選手を輩出する大阪のイトマンスイミングスクールから勧誘され、「自分で決めなさい」という両親の言葉に、「オリンピックに行くためには」と決心し、単身大阪へ。中学・高校と寮生活で水泳に打ち込んだ。

0.1秒差で逃したバルセロナ五輪、引退を翻意させた橋本聖子さんの言葉

 初めての五輪出場のチャンスは高校1年で訪れる。92年、バルセロナ五輪最終選考。しかし、わずか0.1秒のタイム差で出場権を逃す。

「気持ちを切り替えるのは簡単ではありませんでした。当時の競泳は中高生がピークの競技。20歳で迎える次の五輪のことなど考えられず、ガラガラと夢が崩れました。5歳からオリンピアンになることは当たり前だと思っていたので、『五輪に行けない今の人生は、別の誰かの人生だ』と思うぐらい、受け入れられなかった」

 現実を受け入れられない強い気持ちが、「次」に向かう発奮剤となる。数か月後、2度目の五輪への挑戦を決めた。

「当時は、大学生で記録を伸ばす人はほとんどいなかった時代です。正直、自信はなかったし、『出られるわけがない』という周囲の空気も感じていました。でも、考えた末、『諦める』という選択はなかった」

 4年後、周囲の、そして自身の予想を覆し、井本さんは15年間、追い続けた目標の舞台に立つ。96年アトランタ五輪出場。自分の人生を取り戻した瞬間だった。

 念願の五輪出場を果たしたのは、96年アトランタ大会。井本さんは個人、リレーの2種目で予選落ちしたものの、女子4×200mリレーでは4位に入賞。しかし、この結果は満足のいくものではなかった。

「人生をかけた集大成の大会だったのに、力を発揮できず、メダルも獲れなかった。これで引退だと思っていたので、すごく悔しくて。帰国する飛行機のなかでも、めっちゃくちゃに泣いていました」

 そんな彼女に声をかけたのは、当時、自転車競技の選手として出場していた橋本聖子さんだった。『後悔が残っているなら、競技をやめちゃダメ』。その言葉を聞き、もう一度、チャレンジしようと決めた。

「今だったら考えられないのですが、当時の感覚では『もう20歳のオバサンなのに、まだ現役を続けるなんて!』と頭を過りました(笑)。でも、相手は7回五輪に出場する選手です。まったくその通りだなと思い、続けようと決めました」

泣いてばかりだった水泳生活、それでも言える「幸せな競技人生」と

 帰国後、自らアスリート奨学金をもらえるアメリカの大学を探し、テキサス州サザンメソジスト大に留学。在学中は一定レベルの学業の成績を残さないと試合に出られなかったため、「当初は英語での授業、学業と水泳との両立に苦労した」が、卒業後は練習量をしっかり積めた。技術・筋力の向上、メンタル面も充実し、23歳を過ぎても、記録を伸ばし続けた。

 そして迎えた、シドニー五輪に向けたラストシーズン。井本さんは自分の弱点を受け入れることで、気持ちを切り替えた。

「中学時代から、練習では『もっといける』という手応えはあるのに、試合ではいつも力を発揮できなかった。実力以上の目標を掲げては本番で届かず、ずっと泣いてきました。だけど最後の1年は気持ちを切り替え、もう高い目標を掲げるのをやめたんです。とにかく全力を出し切ろう。やるだけやって、それで終わりにしよう、と」

 24歳の井本さんは代表選考会の日本選手権で出場全種目、自己ベストを更新するも、派遣標準タイムには0.03秒及ばず。2度目の五輪出場は叶わなかった。「すべて出しきったし、後悔はない」。3度目の五輪挑戦を終え、約20年の競技生活に終止符を打つ。

「水泳を続けていた間は泣いてばかりで、個人種目で会心のレースはほとんどありません。それでも、水泳を通じてたくさんのことを得られたので、幸せな競技人生でした。一番は素晴らしい仲間たちとの出会い。仲間の元はずっと日本に居なくても、20年以上会っていなくても、いつでも帰ってこられる自分の居場所。大切な宝物です」

(後編『選手村で感じた「世界の不平等」 日本人五輪スイマーが引退後にユニセフで働く理由』に続く)

■井本直歩子 / Naoko Imoto

 3歳から水泳を始め、小学6年時に50m自由形で日本学童新記録を樹立。中学から大阪イトマンに所属。近大附中2年時、1990年北京アジア大会に最年少で出場し、50m自由形で銅メダルを獲得。1994年広島アジア大会では同種目で優勝する。1996年、アトランタ五輪に出場。千葉すず、山野井絵理、三宅愛子と組んだ4×200mリレーで4位入賞。2000年シドニー五輪代表選考会で落選し、現役引退。スポーツライター、橋本聖子参議院議員の秘書を務めた後、国際協力機構を経て、2007年から国連児童基金職員となる。2021年1月、ユニセフを休職して帰国。3月、東京2020組織委員会ジェンダー平等推進チームアドバイザーに就任。6月、社団法人「SDGs in Sports」を立ち上げ、アスリートやスポーツ関係者の勉強会を実施している。(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)

長島 恭子
編集・ライター。サッカー専門誌を経てフリーランスに。インタビュー記事、健康・ダイエット・トレーニング記事を軸に雑誌、書籍、会員誌で編集・執筆を行う。担当書籍に『世界一やせる走り方』『世界一伸びるストレッチ』(中野ジェームズ修一著)、『つけたいところに最速で筋肉をつける技術』(岡田隆著、以上サンマーク出版)、『走りがグンと軽くなる 金哲彦のランニング・メソッド完全版』(金哲彦著、高橋書店)など。