「オープン球話」連載第73回 第72回を読む>>【池山隆寛の台頭で出番を失った】――今回も、広岡達朗監督時代のV1戦士・…

「オープン球話」連載第73回 第72回を読む>>
【池山隆寛の台頭で出番を失った】
――今回も、広岡達朗監督時代のV1戦士・水谷新太郎さんについて伺います。広岡さん時代に台頭した水谷さんは1980年代半ばまで、ヤクルトのレギュラーショートでした。
八重樫 守備に関しては、ある程度完成したのかもしれないですね。ただ、僕らキャッチャーからしたら、水谷の守備には不満もありましたよ。
――どういう点が不満だったんですか?
八重樫 狙い通りに打ち取って「ゲッツーだ」と思ったのに、セカンドに走ってくる一塁走者に水谷が吹っ飛ばされてゲッツーが成立しない、なんてことがよくありましたから。だから、ランナーと交錯しないように、外野寄りにバックステップして一塁に送球するんだけど、肩が強くないからファーストはセーフになる。僕からしたら、水谷の守備には手放しで「100点満点です」とは言えないかな。ただ、ゴロの処理はとても上手でしたよ。1984(昭和59)年にはショートとして、当時の最高守備率も記録していますからね。

引退後、野村克也(左)が指揮を執ったヤクルトなどでコーチを務めた水谷(右:背番号85)
――広岡さんがチームを去った後でも、前回お話していたように「練習の虫」という点は変わらなかったんですか?
八重樫 現役を引退するまで、その点はずっと変わらなかったですね。ただ、1980年代中盤から池山(隆寛)が台頭してきたでしょう。関根(潤三)監督は池山を積極的に起用したし、水谷の出番はだんだん減っていった。それは不満だったんじゃないのかな? 当時、ヘッドコーチだった安藤(統男)さんがフォローすればよかったのかもしれないけど、あの頃は池山、広沢(克己)のことを「チーム一丸になって育てよう」という時代でしたから。
――確かに、関根さんが監督に就任した1987年、水谷さんの出場機会はゼロですね。ウィキペディアなどによると、当時、足の故障に悩んでいた水谷さんが、その痛みを口にしたら関根監督の耳に入って、逆鱗に触れたと書かれていますが......。
八重樫 それが本当のことなのかはわからないけど、チームにとって世代交代は必要だし、池山の才能も光っていたのは大きかったと思いますよ。たぶん、事実だったとしても若い選手を積極的に使いたかった関根さんの口実だったんじゃないのかな? 水谷としては「まだまだやれる」「もっとやりたい」という思いが強かったでしょうね。
【土橋勝征を守備の名手に育てる】
――結局、水谷さんは野村克也監督1年目の1990(平成2)年オフに現役を引退し、その後は指導者の道を歩まれます。
八重樫 指導者としても広岡さんの影響は大きかったと思いますよ。水谷もまた、広岡流の厳しいコーチでした。レギュラー組には、彼らのそこに至るまでの努力を尊重して、そこまで厳しくすることはなかった。だけど、伸び盛りの若手、中堅に対しては本当に厳しかったですよ。
――水谷さんに鍛えられた若手、中堅としては誰がいるんですか?
八重樫 真っ先に思い浮かぶのは土橋(勝征)かな? 広岡さんもそうだったけど、水谷も「守備は練習すればするほどうまくなる」という考えの持ち主でした。自分自身がそうだったから、その考えは揺るぎないものだったんじゃないかな。その頃の土橋は、いつもノックを受けていましたよ。
――土橋さんは、プロ入り後に内野手から外野手にコンバートされて、その後、内野手に復帰。ヤクルト黄金期には不動のセカンドとして大活躍しました。
八重樫 土橋がセカンドとしてレギュラーになり、「名手」と呼ばれるようなったのは、本人の努力もあっただろうけど、水谷の根気強い指導の影響も絶対に大きかったと思います。土橋が立派だったのは、先ほど話したゲッツーになりそうな場面でランナーが足を引っかけてきても、絶対に逃げなかったこと。ランナーに力負けせずに向かっていく姿勢は立派でした。実際に、土橋がセカンドを守っている試合はゲッツーが増えていました。
――他にはどんな選手がいましたか?
八重樫 楽天の監督だった三木〈肇〉とか、1999年ドラフト1位の野口(祥順)。あとは岩村(明憲)もそうでした。ただ、水谷自身も若かった1990年代くらいまではいいけど、あれだけ熱心な、いわゆる「熱血指導」は今の選手に合うのかどうか、難しい時代になってきたと思いますけどね。
【野球ひと筋の人生を歩んだ熱血指導者】
――ヤクルトで長くコーチを務めた後、ベイスターズでも指導し、2015~2017年は古巣に戻って、再びヤクルトのコーチになりました。現役引退後は指導者ひと筋の野球人生ですね。
八重樫 現役時代から生真面目な男でしたから、泥まみれになって若い選手と汗を流したり、その成長を間近で見守ったりするのは、彼の性格に合っていたと思いますね。
――確かに、生真面目な印象がありますが、ユニフォームを脱いだ時の水谷さんはどういう性格の方なんですか?
八重樫 もう、そのまんまですよ。入団から数年間は一緒に寮に入っていたんですけど、若いくせに全然遊ぶようなタイプじゃなかった。周りが心配するぐらい野球ひと筋の生活でしたからね。遊びを知らないんですよ。
――若い頃は、遊びたい盛りでも不思議じゃないのに(笑)。
八重樫 当時、ヤクルトのファームの本拠地は神奈川の武山にあったんです。休みの日にはよく横須賀まで行って、水谷と食事をしましたね。だけど、あの頃は普段から女っ気が全然なくて心配しましたよ(笑)。
――余計なお世話だと思いつつ、周りが心配するのもわかる気もします(笑)。
八重樫 でも、水谷が一軍に定着する頃には、少しはそういう話も耳にしたから安心しました(笑)。そんなに酒を呑むタイプじゃないけど、若手がうまく育たなかったり、エラーが続いた時には、ストレスのせいなのか酒を呑みながら不満を言ったりしていたけどね。選手の前ではそんな素振りは見せなかったですよ。
――水谷さんのお話を聞いていると、野球にかける情熱はハンパじゃなく、自らにとても厳しく、熱血指導がモットーの指導者というイメージですね。
八重樫 そのとおりですよ。入団してきた時から、コーチになってからもずっと変わらなかったし、一本気な男ですよね。
(第74回につづく)