橋上秀樹インタビュー 前編 名将の陰に橋上秀樹の存在があった。 現役時代にヤクルト、阪神で野村克也監督に師事し、引退後は…

橋上秀樹インタビュー 前編

 名将の陰に橋上秀樹の存在があった。

 現役時代にヤクルト、阪神で野村克也監督に師事し、引退後は楽天のヘッドコーチとして"野村ID野球"の屋台骨を支えた。巨人では戦略コーチとして阿部慎之助(現・二軍監督)に打撃開眼のきっかけを与え、原辰徳監督のセ・リーグ3連覇に貢献。さらに2013年のWBCでは日本代表の戦略コーチも務めた。その後、西武・辻発彦監督のもとで作戦コーチや野手総合コーチとして若手育成に手腕を発揮し、山賊打線と恐れられる打撃の礎を築いた。

 名参謀として常勝チームを支え、現在は独立リーグ・ルートインBCリーグで新潟アルビレックスBCの監督を務める橋上氏にインタビュー。前編では、参謀の視点から見た名将たちの実像や、楽天の黎明期に発案した"奇策"などについて語ってもらった。



野村克也氏(右)ら数々の名将を支えた橋上秀樹氏(左)

* * *

 橋上秀樹氏は東京・安田学園高を卒業後、1983年にドラフト3位でヤクルトに入団。現役生活をヤクルト、日本ハム、阪神で過ごし、2000年に引退した。その後、コーチとして楽天(2005~2009年)で田尾安志と野村克也、巨人(2012~2014年)で原辰徳、楽天(2015年)で大久保博元、西武(2016~2018年)で田邊徳雄と辻発彦、ヤクルト(2019年)で小川淳司、と7人の監督に仕えた。

 とりわけ、楽天・野村監督のもとで球団初のシーズン勝ち越しとクライマックスシリーズ進出(2009年)、巨人・原監督のもとで日本一(2012年)とセ・リーグ3連覇(2012~2014年)、西武・辻監督のもとでは10年ぶりのパ・リーグ制覇(2018年)と、名参謀として常勝チームを支えた。

「野村監督、原監督、辻監督はそれぞれ性格も違いましたし、コーチとしてこちらの準備の仕方も変えました。野村監督には『先回り』が大切。試合前に監督がほしがるようなデータを事前に考えました。例えば『この打者とこの走者の時は、ヒットエンドランを仕掛けてきたことがこれまで何回あったのか』といったデータです。それも仕掛けてくるカウントまで押さえておく必要があった。野村監督はそういうデータが大好きで、事前に用意したものを試合中に、『ここではエンドランを仕掛けてくる可能性があります』というように、こちらから提供するというスタンスでした。

 一方、原監督はそのつど、求められるものをこちらから出すという形で、監督から要求されるまでは詳細なデータを提供することはありませんでした。野村監督はコーチの教育も踏まえて、自分が全部やるのではなくてコーチにはコーチの仕事を任せてくれる感じでしたが、原監督はどちらかというと、一から十まで全部自分で判断をしたいという人。だから、こちらからは言われる前にいろいろと出すことはしないようにしていました。辻監督もどちらかというと原監督と似ているところがあって、特に野手に関しては基本的に自分で判断をしたがっていた。なので、こちらは聞かれたことに対してソツなく答える準備だけをしていました。

 野村監督の後に原監督に仕えましたが、最初は監督との"距離感"を含めて戸惑いもありました。データをどの程度用意したらいいのか、どの時点で提供したらいいのか......。その強弱は監督によってかなり違いました。ただ、お三方とも『名将』と言われる域に入っていた監督で、自分なりの監督論や考え方があった。だから、こちらはそのスタイルに合わせようと考えていました」

 そもそも現役引退後、野球界から離れてゴルフショップを経営していた橋上氏がコーチとして再び野球界に戻るきっかけをつくったのは、南海ホークス(現・ソフトバンク)で野村監督とともにプレーした野手・松井優典氏の存在が大きかった。野村監督がヤクルト監督時代にチームマネージャーや二軍監督、一軍チーフコーチとして支えた男で、阪神監督時代にもヘッドコーチとして苦楽をともにした。

「現役時代から松井さんには目をかけてもらい、大変お世話になっていました。2005年に楽天が誕生した際、松井さんが初代二軍監督に就任した。その時に『コーチをやらないか』という話を松井さんからいただき、二軍外野守備・走塁コーチに就任したんです。私が野球界に戻るきっかけを与えていただいたという意味では、私は野村監督以上に松井さんから大きな恩を受けました。コーチとしても松井さんの姿を見て、勉強させていただいた部分は多かったです」

 2005年、50年ぶりの新球団として誕生した楽天。しかし田尾安志監督率いる一軍の成績が低迷。フロントはシーズン途中の5月、一軍と二軍のコーチ陣を一部入れ替えるという荒療治に出る。

「コーチ陣の入れ替えで松井さんが一軍ヘッドコーチに、私も一軍外野守備・走塁コーチに昇格しました。1年目の成績は38勝97敗1分とパ・リーグで断トツの最下位。その翌年の2006年に野村監督が就任し、私は野村監督のもとでコーチをすることになり、再びID野球を学ぶことになったのです」

 野村監督の楽天1年目は、現役時代、"青い稲妻"のニックネームで知られた松本匡史氏がヘッドコーチを務めた。しかし現役を巨人で過ごし、野村監督のID野球と接点がなかった松本氏は「非常に苦労をされていた」と橋上氏は振り返る。そして、夏のある日、橋上氏は野村監督から思いもよらなかった要請を受ける。

「2006年7月、札幌遠征の試合が終わった後のことでした。長いミーティングがあって、その後にホテルに帰ったところ内線の電話が鳴った。マネージャーから『今から来てくれ』と言われ、部屋に行ったら野村さんと球団代表が待っていました。そこで『来年からヘッドコーチをやってほしい』と伝えられました。シーズン途中の、まだ7月のことだったので驚きました。そこで『残りのシーズンは来年を見越した上で臨んでほしい』『来シーズンのコーチ人事のことも考えてくれ』と。試合の時も、それまではずっとベースコーチをしていましたが、ある時に野村監督から『これからはベンチにいろ』と言われ、隣に座って"ボヤキ"を聞くようになりました。

 実際、その年のシーズン終盤になって、『来年の一軍のスタッフィングに関して希望は?』と球団に言われました。ヘッドコーチは人事まで意見を求められるのか、と驚きながら、一軍外野守備・走塁コーチの(自分の)後任を誰にするかを考えました。そこで当時楽天で野手をしていた佐竹学(現・オリックス外野守備・走塁コーチ)に白羽の矢を立てました。本当は翌年以降も現役として契約をする予定だったそうですが、引退させてコーチを引き受けさせた(笑)。のちに佐竹に「まだ現役でできたのに申し訳ない」と謝ったら、「いやいや、おかげでコーチとして長くユニフォームを着られますから」と言っていました。あれから15年......彼は今もオリックスでコーチをしています」

 野村監督が就任した楽天は2006年こそパ・リーグ最下位だったものの、2007年は4位に浮上。2008年は5位となったが、2009年には2位と躍進し、球団初のクライマックスシリーズ進出を果たした。ヘッドコーチを務めた橋上氏は野村監督のもと、時に戦略的な提案をしながら、弱小チームを上位に導くための策を練った。

「楽天は選手層も薄く、当初はなかなか勝てないチームだったので、結構思い切ったことを提言できる環境でした。特に選手起用です。普通にやっていてはなかなか勝てない。相手チームとの戦力差もあったので、失敗も覚悟である程度"奇襲"を使わなければいけないチームでした。

 例えば、あの頃(06年)は交流戦に予告先発制度がなかったので、巨人戦で、それまで全然ローテーションで回っていなかった左投手を急きょ一軍に上げて投げさせたこともありました。ちょうど先発ローテーションの谷間で、対戦データを見ると圧倒的に左投手が打たれてなかったので、野村監督に『困ったら左でいきましょう』と言ったんです。『ウチに投げられる左投手は誰がいるんだ』と言われて、それまで中継ぎだった有銘(兼久)や川井(貴志)を提案しました。

 試合前の練習ではわざと外野のポールとポールの間をこれ見よがしに走らせて、コイツは先発じゃないという感じでカムフラージュしました。二人が先発した試合はどちらも勝った。野村監督もそういう先発起用は面白がって喜んでいましたね」

(後編に続く)

Profile
橋上秀樹(はしがみ・ひでき)
1965年11月4日生まれ、千葉県出身。安田学園高を卒業後、1983年にドラフト3位でヤクルトに入団。日本ハム、阪神を経て、2000年に現役引退。2005年に新設された楽天イーグルスの二軍外野守備・走塁コーチに就任し、シーズン途中に一軍外野守備・走塁コーチに昇格。以降、独立リーグの新潟アルビレックスBCの監督、巨人の一軍戦略コーチ、第3回WBC(2013年)の戦略コーチ、楽天一軍ヘッドコーチ、西武の一軍野手総合コーチなどを歴任。現在は再び新潟アルビレックスBCの監督を務める。