「誰よりも遠くまで飛びたい」。長年の夢が、叶った瞬間だった。 「2本目のジャンプを飛び終わった時は、ホッとして腰が抜けたような感覚があって…。あの辺りのことは、あまり覚えていないんです。みんなで力を出しきりましたね」。 …

「誰よりも遠くまで飛びたい」。長年の夢が、叶った瞬間だった。

「2本目のジャンプを飛び終わった時は、ホッとして腰が抜けたような感覚があって…。あの辺りのことは、あまり覚えていないんです。みんなで力を出しきりましたね」。

今から23年前、長野五輪のジャンプ団体で金メダルを獲得した瞬間を、原田さんはこのように振り返る。

原田さんとジャンプとの出会いは、小学校3年生の時に遡る。「生まれ育った町の小さなスキー場で、ジャンプ少年団に出くわしたんですよ。楽しそうにジャンプしている子供達の姿を見て、『あそこから飛んだら、どんな気持ちなんだろう?』と、興味が湧いてきて…。それを知りたかったんです」。

だが、後の金メダリストにとっても、初めて登ったジャンプ台は恐怖と隣合わせだったという。

「怖さを感じながら過ごしていると、先輩から押されて…。5mくらい下に落ちたんですよ。その時に、『ふわり』と浮くような感覚がありまして…。次は、『もっと遠くまで飛べるんじゃないか?』という気持ちになりました。その時のジャンプへの探究心を、ずっと持ち続けられたことが、競技を長い間続けられた理由ですかね」。

中学1年生で全国中学ジャンプ選手権を制覇すると、翌年も連覇。中学3年生で早くも世界ジュニア選手権に出場(33位)するなど、若くして頭角を現した原田さんの活躍を、後に雪印でチームメートになる西方仁也さんは、「同級生に凄い奴がいる」と感じていたという。

高校卒業後の1987年、雪印に入社した原田さんは、「V字ジャンプ」を武器に、活躍の場を広げ、初出場のアルベールビル五輪(フランス・1992年)で、日本勢としては3大会ぶりの4位入賞を果たすと、その後は日本を代表する選手の一人として、日本ジャンプ界を牽引していった。

「アルベールビル五輪の時は、まだ何も分かっていなくて、プレッシャーや怖いものもなかった。僕にとっては、一番楽しいオリンピックでしたね。街の壁に貼ってある五輪のマークを見て、素直に感動したりとか…。この頃は、『好成績を出そう』とは思っていなかったんですが、それでも凄く自信はあった。『とりあえず飛ぶ』くらいの軽い気持ちで挑んだら、結果に繋がったという感じですね」。

だが、五輪やノーマルヒルで優勝を勝ち取った世界選手権(1993年2月・ファールン)での活躍などにより、感じるプレッシャーは日に日に増していったという。

「アルベールビル五輪の時には、まだ駆け出しだったので、メダルを意識することはありませんでした。結果へのプレッシャーを感じるようになってきたのは、翌年の世界選手権で優勝してからですね。その後は、『メダルを取りにいく』という想いは徐々に強くなり、気付かないうちにプレッシャーを感じていたように思います」。

そのプレッシャーが、皮肉にもリレハンメル五輪で顕わとなった。不調に終わった個人戦(ノーマルヒル55位、ラージヒル13位)の後に行われたジャンプ団体では、最終滑走者として登場した原田さん。金メダルをほぼ手中に収めたなかでで挑んだ2本目のジャンプでは、まさかの失速。逆転を許した日本は、2位で競技を終えた。

「結局、五輪を甘く見ていたんだと思います。直前のワールドカップでも、同じような失敗を繰り返していたんですけど、『このままいけば大丈夫かな?』という安易な考えも一方ではあって…。本来ならば、どう考えても我々が1位になるべきだったと思うんですが…。試合を終えた時は、『大変なことをしてしまった』という想いが強くて、なかなか心の整理がつかなかったですね」。

その後、さまざまな誹謗中傷も相次ぎ、「うまくいかないことが続いて気持ちの浮き沈みのある日々を過ごした」という原田さんだったが、その自信を取り戻したのは、周囲にいる人々の支えと、導き出した“ある答え”だったという。

「五輪での失敗を乗り越えるのは本当に大変でした。多くの人たちの助けがあってこそだったと思います。思い悩むこともありましたけど、いつまでも「悔しさ」を引きずるわけにはいきませんし、その先の人生もすぐにやってくる。これまでよりも良い成績を出し、『原田は強くなった』と言われるような選手を目指す。僕に出来ることはそれしかありませんでした」。

リレハンメル五輪後には、一時はスランプも経験をしたものの、その後は徐々に復調。高い飛び出しを武器にしたジャンプを磨き上げた原田さんは、五輪前年の世界選手権(トロンハイム)の個人ラージヒルで優勝。五輪シーズンにも、W杯で5勝を挙げるなど、確かな手応えを感じながら長野五輪に向けて調整を進めていった。

初戦のノーマルヒルでは5位に終わったものの、「まだまだジャンプの追求が甘かった」と気持ちを切り替えて臨んだ2戦目の個人ラージヒルでは、逆転で銅メダルを獲得。原田さんは、「団体戦に向けて大きな自信を掴んでいた」という。

だが、条件が揃ったなかで迎えた団体戦では、またしても原田さんに試練が訪れる。

「『メンバー4人の誰が飛んでも、金メダルが取れる』という、万全のコンディションを整えて試合に臨んだんですけども、その日は「試合を止めたらいいのに…」というくらいの吹雪で…。まったく想定しなかった悪天候を目の前にして、『なぜなんだ!』という気持ちでした」。

大雪の中で飛んだジャンプで、飛距離を伸ばすことが出来なかった原田さんをはじめ、天候に苦しめられた“日の丸飛行隊”はまさかの失速。1本目のジャンプを終えて4位に沈んだところで競技は一時中断した。

「関係者を含めて、みんなが言葉を失っていました」。

前が見えない程に雪が降り頻るなか、競技の再開は、怪我の影響で代表入りを逃した西方さんをはじめとするテストジャンパーチームの滑走に委ねられることとなった。

「再開を待ち侘びている観客や除雪作業をしてくださる役員の皆さん。そして、足がガクガクになるくらいまでジャンプを飛んで、競技の継続をアピールしてくださったテストジャンパーの皆さん。多くの人が再開に向けて動き出してくれて…。感謝の気持ちを込めて飛びたいと思いました」。

競技が再開された後には、岡部孝信選手、斎藤浩哉選手の活躍により、首位を奪い返した日本チーム。「当日、足がガクガクになるくらいまで飛んでくれたテストジャンパーの皆さんへの感謝の気持ちや、団体戦に出場できなかった西方、葛西といったメンバーの五輪に懸ける想い。『彼等の分まで飛びたい』という想いで挑んだ」という原田さんは、2本目の滑走で137メートルの大ジャンプを披露し、日本の金メダル獲得を大きく手繰り寄せた。

「金メダル獲得が決まった時は、『原田さん、良かったですね』とみんなが声をかけてくれて…。皆さんのおかげで金メダルの夢が叶えられたと思っています。長野五輪からもう20年くらい経つんですけど、『金メダルを取れて良かったね』って、声を掛けてもらえることが多くて…。このように映画化されて、また次の世代に繋がっていくというのは非常に嬉しいですよね」。

その後、2回の五輪に出場後に選手生活に幕を下ろした原田さんは現在、雪印メグミルクスキー部の総監督として、後進の指導にあたっている。

昨シーズンは、「コロナ禍」の影響により、試合は度々延期。北京五輪を来年に控えるなか、難しい状況での競技を強いられるなか、原田さんは「満足な練習ができない時にも、選手自身が考えて前に進んでいく。どんな時も歩み続ける選手たちの逞しさを感じながら過ごしている」という。「五輪は、独特のプレッシャーや、自分を後押ししてくれる大きな力を感じることができる場所でした。スポーツを極めた先にある、「一番素晴らしい瞬間」だと僕は思う。指導している選手たちにも、ぜひこの感覚を味わってもらいたい。そんな想いで、日々を過ごしています」。

「誰よりも遠くまで飛ぶ」。原田さんの夢は、長野の喧騒から23年経った今も、変わらずに生き続けている。

©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 

『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜』  ©2021映画「ヒノマルソウル」製作委員会 出演:田中圭 土屋太鳳 山田裕貴 眞栄田郷敦 小坂菜緒(日向坂46)/濱津隆之/古田新太 他 

写真/ヒノマルソウル制作委員会