日本代表が強豪国と戦う時(1)~フランス ユーロ2020が1年遅れで開催されている。新型コロナウイルスの感染を抑え込んで…
日本代表が強豪国と戦う時(1)~フランス
ユーロ2020が1年遅れで開催されている。新型コロナウイルスの感染を抑え込んでいる地域では満員のスタジアムもあって、久々にサッカーの熱狂を取り戻したような雰囲気だ。キリアン・エムバペ(パリ・サンジェルマン)やカリム・ベンゼマ(レアル・マドリード)などを擁するフランスは、決勝トーナメント1回戦で伏兵スイスに敗れたとはいえ、優勝候補としてこの大会でも注目の的だった。
欧州各地では血沸き肉躍る戦いが繰り広げられ、お互いが切磋琢磨しているように映る。
一方で日本は、欧州の列強と試合を組むのが難しい局面を迎えている。ワールドカップ予選、ユーロ予選に加えて、欧州ネーションズリーグが発足し、過密日程で親善試合のマッチメイクの交渉は難航。コロナ禍もあって、南米も含めた「世界」との距離を測るのが難しい時代になりつつある。
サッカーは写し鏡のようだ。
相手次第で、己の本性があぶり出される。強大で老練なチームを相手にする場合は、脆さや無垢さが露わになる。それを糧にできるかできないかで、その後の運命は大きく変わる。その点、「強敵は最大の友人」とも言えるだろう。
あらためて、日本代表は強敵から何を学んできたのか――振り返る意味はあるだろう。過去にワールドカップを制した8カ国を中心に強豪国との一戦を取り上げ、日本サッカーを再検証する。
短期集中連載の第1回は、2度の欧州王者、2度の世界王者に輝いたフランス。かつて、日本は手ひどくやられており、今年7月には、U-24代表が東京五輪でも同組で対戦する予定だ。

2001年、サンドニで行なわれたフランス戦に出場した日本代表の中田英寿
2001年3月、パリ郊外にあるサンドニ。1998年のフランスワールドカップ決勝の地になったスタジアムで、日本はフランスの胸を借りている。当時、フィリップ・トルシエに率いられた日本はアジア王者に輝いた後で、天を衝く勢いだった。しかし当時、ジネディーヌ・ジダン、ティエリ・アンリ、ロベール・ピレス、マルセル・デサイーなどを擁したフランスに、その未熟さを思い知られる。
「サッカーをずっとやって来て、生まれて初めて『このピッチから去りたい』と思ったよ。それほどに屈辱的だった」
当時、トルシエジャパンが用いたフラットスリーの中心的存在だった松田直樹は、その試合で感じた無力さを洩らしていた。
「序盤(前半10分)にピレスがペナルティエリアに入ってきた時、動きが遅れて倒してしまい、PKを与えてしまって。『まだ試合は始まったばかりだ』と自分を励ましたけど、ジダンを相手にすると何もできなくて、間合いを詰めると叩かれて裏を取られ、間合いを詰めないとターンされてあっさりフィニッシュまで持っていかれた。すぐに2点目を取られてしまって......自分はユースから世界大会を戦ってきたけど、"世界"っていうものを初めて感じた」
日本はフランスの選手の技術の高さに圧倒されている。ジダンのボールキープは変幻自在だったし、アンリのコントロール&キックは神がかり、ピレスのエレガントさは獰猛なほどで、デサイーは無敵のサイボーグのようだった。雨が降って重くなったピッチでも、フランスの選手は軽やかにプレーしていたが、日本は動きが鈍く見えた。
ほとんどの日本人選手が未知との遭遇を感じ、歯が立たなかった。アジア王者などという称号はまるで通じない。当時、Jリーグを席巻していたジュビロ磐田の選手たちもなす術がなかった。
結果、ワンサイドの内容で5-0と大敗を喫した。
「サンドニの悲劇」
後世にそう伝えられる試合だ。
唯一、フランスと渡り合えたのが、すでにイタリアで活躍していた中田英寿だった。重心が低く、ボールを失わない。ドリブルからクロスバーを叩くシュートを打ち込んでGKを脅かし、少しも引けを取らなかった。彼がボールを触った時だけ、フランスの選手も不用意に飛び込めない。精神的にも自信に満ち溢れ、ひとり違う境地に立っていた。
そのシーズン、中田はセリエAのローマで日本人として初のスクデット(リーグ戦優勝)を勝ち取っている。ユベントスとの決戦では、2点リードされた状況で交代出場し、豪快なミドルを決めた後、劇的な同点弾もアシスト。当時、イタリアは世界最強リーグで、その値打ちは計り知れなかった。
◆日本代表、敗れてこそ。挫折が改善を生んだW杯史、中田英寿の出現
日本人はフランスのフィジカルパワーをベースにした技術の高さに、ひ弱さをさらけ出した。当時、次世代のスーパースター候補だった中村俊輔は左ウィングバックで先発し、厳しい評価に晒されている。それはひとつの教訓だった。
フランスという強敵に受けた屈辱を、日本は成長の触媒としている。
「俺は負けるのが許せないし、だからこそプロの世界で生き残ってこられた」
そう語っていた松田は、翌年の日韓ワールドカップに向けて限界まで心身を追い込み、ベスト16に勝ち上がる原動力になった。
「自分は高校の頃から世界の強豪と戦う機会をもらい、少しでもミスをしたらやられるという感覚を養えた。怖さを肌で感じてビビったこともあったけど、それよりもむかついたし、燃えずにはいられなかった。フランス戦で受けたような屈辱は二度とごめんだった。『負けねぇぞ』っていう反骨心と緊張感を持っていたから成長できた」
そしてサンドニの悲劇から3年後、フランスリーグで認められる日本人が現れている。
「フランスに来て、自分がどう成長しているか、というのはわからないところもあります。でも、体が覚えていく感じですかね。例えば球際にしても、相手の強さに応じて自分も強くなった」
2006年のインタビュー時、フランスリーグのル・マンに所属していた松井大輔はそう語っていた。アフリカ系の選手のパワー、スピードは問答無用だったし、我の強さも日本人には面食らうところがあったという。しかし松井は適応することで、自分のプレーを爆発させた。
「アフリカ系の選手の体力はすごいですよ。でも例えば柔道で、日本人は小さいのに、でかい人を倒してきた。僕はそういう戦いがしたい。でかさやごつさだけでは限界があると思う。だから、日本人は日本人なりにやればいいと思う。それは必ずできるはずだし、ヨーロッパ人やアフリカ人の真似をしなくてもいい」
海を渡って、現地に飛び込むことで得た感慨は深かった。松井は自らの技術を出せるようになり、その俊敏さやトリッキーな技術によって現地で人気を博した。弱さは華麗さとなった。
日本サッカーにとって、サンドニの悲劇は進化の途上だったのだ。
(つづく)