「オープン球話」連載第65回 第64回を読む>>【第一印象は「大人しくて、チャラチャラしていないヤツ」】――前回までは「…

「オープン球話」連載第65回 第64回を読む>>

【第一印象は「大人しくて、チャラチャラしていないヤツ」】

――前回までは「花の昭和22年組」として、元ヤクルトのチームメイトである安田猛さん、会田照夫さん、若松勉さん、松岡弘さん、大矢明彦さんたちについて伺ってきました。今回からは趣向を変えて、現在の「ユニフォーム組」についてお話を聞いていきます。まずは、現在一軍を指揮する高津臣吾監督について伺います。

八重樫 シンゴにはいろいろな思い出があります。今、コロナで大変な時期に指揮を執っていて、本当に大変だし、立派だと思うよね。



日本一になり喜ぶ、古田敦也(左)と高津臣吾(右)

――スミマセン、本題に入る前にひとついいですか? 「シンゴ」って、川端慎吾選手のことかと思いました。八重樫さんは高津監督のことを「臣吾」って呼んでいるんですね。ちなみに、川端選手のことは何て呼んでいるんですか?

八重樫 川端は「カワバタ」です。で、高津は「シンゴ」。これは昔からずっとそう呼んでいたんで、いまさら「タカツ」というのも変な感じなんですよ(笑)。

――承知しました。話の腰を折ってスミマセンでした。八重樫さんが最初に高津さんと会ったのは、彼が入団してきた1991(平成3)年のことですか?

八重樫 詳しい日にちは忘れたけど、同じ亜細亜大学の先輩の宮本(賢治)が僕のところに来て、「今度ヤクルトに入った、亜細亜の後輩です」って高津を連れてきたのが最初でした。宮本は、そういう礼儀正しいところがあるヤツでしたから。臣吾の第一印象としては、「大人しいヤツだな」とか、「チャラチャラしていないヤツだな」っていう感じでしたね。その印象は今でも変わらないです。

――宮本さんも高津さんも、ともに下手投げですよね。ちなみに、両者のボールの違いを教えていただけますか?

八重樫 投球フォームでいえば、宮本はアンダースローになったり、サイドスローになったりで、臣吾はサイドスローという感じですよね。宮本は球に勢いがありました。下から浮き上がるようなイメージ。スライダーとカーブのコンビネーションで勝負するんだけど、コントロールはイマイチだったな。

―― 一方の高津さんはどんなタイプでしたか?

八重樫 コントロールは抜群でしたね。抜け球もないから、逆にバッターとしては狙い球を絞りやすくて打ちやすいんですよ。そして、左バッターに対する勝負球、落として引っかけさせるボールを持っていなかったんです。だから、一回打たれ出すと大量得点を許すケースが多かった印象がありますね。

【プロ入り直後は「決め球に欠ける投手」のイメージ】

――入団当時の高津さんの球種は何だったんですか?

八重樫 ストレートがあって、カーブ、スライダー、シュート、そして後に投げるようなチェンジアップ気味ではなくて速めのシンカーだったかな? 基本的には横の揺さぶりで勝負するピッチャーで、落ちるボールはまだまだだった。落ちるシンカーをマスターしてから花開いた感じです。

――プロ入り直後は先発投手として起用されていました。先発時代の高津さんはどんなピッチャーだったんですか?

八重樫 とにかくコントロールがいいから、フォアボールを出してランナーをためて崩れることはなかったですね。ただ、さっきも言ったけど横の揺さぶりが中心で、追い込んでからの決め球に欠ける投手ではありました。だから、球の勢いが落ちてくると、連打を浴びて大量失点を喫してしまう。それを繰り返しているうちに、徐々に先発投手から外されていった。そんな感じだったな。

――確かに、まとまってはいるんだけど、相手に与える威圧感のようなものはなかった印象があります。

八重樫 そうなんですよ。投げ方は特殊なのにボールはすごく素直だったから。小さくまとまっているというのか、こじんまりしている感じだったよね。バッターとしては、サイドスロー、アンダースローは荒れ球のほうが絶対に打ちづらいんですよ。その点、臣吾は素直なボールでしたね。

――たとえば、1970年代の巨人・小林繁投手、阪神・上田次朗投手、ヤクルトの会田照夫さんなどはボールの勢いもあり、荒れ球のイメージがありますが、いかがですか?

八重樫 僕が高校生だった頃、上田さんが教えに来てくれて、ボールを受けたことがあるんです。自分がまだ高校生だったってこともあるけど、あのときは真っ直ぐにしても、カーブにしても、すべての球種が浮いてくるんですよ。うちの高校のピッチャーもアンダースローだったんだけど、勢いがまったく違って驚いたね。臣吾のボールにはそれがなかったかな。

【1993年夏、「100㎞台のシンカー」をマスターして大飛躍】

――そんな高津さんが、クローザーとして大輪の花を咲かせます。高津さんのプロ3年目、そして八重樫さんの現役最終年となる1993年に、高津さんはリリーフに転向して、抑え投手として大活躍しました。その要因はやはり、チェンジアップ気味のシンカーをマスターしたことでしょうか?

八重樫 間違いなくそうでしょうね。ノム(野村克也)さんはコントロールの悪いピッチャーが大嫌いなんです。というのも、せっかくキャッチャーが一生懸命リードを考えても、そこに投げることができないと何の意味もないから。そういう意味では、臣吾のことは好きだったと思いますよ。当時のうちには抑えピッチャーがいなくて、臣吾が浮き上がって落ちるシンカーをマスターしたのもこの頃。それがクローザー転向のきっかけだったと思います。

――以前、高津監督にインタビューした際に、「1993年の夏頃に100キロ台のシンカーをマスターした」とおっしゃっていました。この頃から相手打線は手も足も出なくなり、結果を残し始め、1993年の日本シリーズでは西武打線をきりきり舞いにさせましたね。

八重樫 僕もまだ現役だったので、ブルペンの臣吾の様子をよく覚えていますよ。彼はいつも、いろいろな握りを試していた。親指と人差し指で輪っかを作って「OK」の形にして投げてみたり、縫い目の位置をいろいろ変えたり、小指側から手首を返してみたり。ちょうど、野村さんに「遅いシンカーをマスターしろ」って言われていた時期ですね。

――このシンカーをマスターしたという1993年夏以降、高津さんは一気に不動のクローザーに成長していきました。

八重樫 正直に言って、あれほどの大投手になるとは思っていなかったよ。本当に勝負強くて、切り替えのうまいピッチャーになった。彼のいいところは、ピンチにも動じないこと。打たれても、すぐに切り替えができること。本当にクローザー向きの性格だと思います。普段はとても愛想のいい男なんだけど、マウンドに上がると一気にスイッチが入るというか、勝負師になるんだよね。

――高津さんといえば、『プロ野球珍プレー好プレー』で、アフロ姿でクリスタルキングの『大都会』を歌う場面が話題となりました。普段の高津さんはどんな方なんですか?

八重樫 今も言ったように、とても愛想のいい男です。先輩にも、後輩にも、分け隔てなくつき合うことができるヤツでね。次回はそのあたりをお話ししましょうか。

(第66回につづく>>)